地下鉄

 用事を済ませ、家路につこうと地下鉄に乗り込む。進む道はただただ単調に暗闇が続くばかりで、窓外を眺めていると気が狂いそうになってくる。しかし、すいているだけまだましだ。ぎゅうぎゅうに混んだ地下鉄の車内は呼吸すらままならず、酸欠で頭がぼんやりとするせいか窓外の闇はだんだんと深まっているように思えて、人間詰め状態のまま地獄に送られてしまうのではないかという気になってくる。

 退屈しのぎに、鞄から取り出した本を読む。何度か駅到着のアナウンスを聞き流した頃、不自然な音がしていることに気がついた。人の呼吸音だ。それ自体は人が近くにいれば当たり前に聞こえてくるごく普通の音なのだが、それは明らかに聞こえてくる位置がおかしいのだ。その音がしているであろう位置は人の頭があるべき位置ではなく、ちょうど人の腰のあたり、すなわち、ちょうど皆が腰かけている座席の位置なのだ。床に座り込んだり座席の上に寝転んだりしない限り、そんな位置から呼吸音が聞こえてくることなどないはずだ。しかし、そのようなことをしている乗客は一人も見当たらない。

 そのやや荒く息を吸ったり吐いたりする音からうかがえる頸の太さからすると、おそらく呼吸音の主は男。音が自分の右側からしているのは承知しているのだが、さりげなく自分の左右に座っている乗客を見てみる。左には、ひとつ飛ばして若い女性が膝に鞄を抱えて座っている。右には、ひとつ飛ばして紳士風の中年男性が左手に紙袋を持って座っている。左に座っている女性はおよそこの音とは関係がないとみて良いだろう。右の男性をそっと観察してみる。だが、男性の胸の膨らむリズムと不自然な位置からする呼吸音のリズムは合っていないことに気が付く。

 わけが分からず、自分の勘違いということで片付けようとしたところ、妙に気になるものが目についた。右側の男性が左手に持っている紙袋だ。それはどこにでもあるような、持ち手のない無地の茶色のものだ。 驚くことに、それは不自然な呼吸音と同じ起伏で微かに膨らんだり萎んだりしている。

 駅到着のアナウンスが響き電車が止まると、紳士風の中年男性が左手に紙袋を抱えて立ち上がった。人の頭はかなり重いと聞くが、男性はいかにも軽々と紙袋を抱えている。扉が開くと、男性も男の呼吸音も、駅の雑踏に紛れて消えていった。