レモンとナイフ(2)

「おかえり」

陸が家へ戻ると、奥から声がかかった。すでに家主が帰ってきているらしい。夕食の準備をしているのか、トントンと包丁の音がする。陸はその音のする台所まで行き、顔を出した。

「ただいま」

「どうしたんだよ、その格好。なんていうか、湿っているな」

「ちょっと、色々あって」

「へえ、色々ねえ」

穂(みのる)は、陸より十四も上の従兄で、両親のいない陸の保護者代わりのようなことをしている。彼は陸の死んだ父親の姉の息子で、父方の従兄弟は皆、男女問わず漢字一文字の名前で統一されていた。それが祖父の趣味なのだ。

「珍しいね、今日は残業なかったんだ」

「少し頭痛がしたから、帰らせてもらった」

「じゃあ休んでいなよ、あとは俺がやるし」

「お前こそ、早く風呂へ入ってこいよ。風邪を引くぞ」

代わろうとして退けられ、気掛かりに思いながら陸が風呂場へ向かうと、すでに湯が立ててあった。本来、夕食の支度も湯を立てるのも陸の仕事なので、申し訳ないような、くすぐったいような思いがして、本来ゆったりと足を伸ばせる湯船に、身を縮こまらせて浸かった。

陸が風呂から上がると、食卓には、春菊のサラダや蓮根の挟み揚げ、栗のおこわなどが並んでいた。普段は料理などしないくせに、仕上がりは見事なものだった。何事もそつなくこなし、よく気が付く。陸は、穂のそんなところが苦手だった。

二人で向かい合って食卓へ着き、食事をしていたが、いつもより長い沈黙が続いた。

「頭痛、大丈夫?」

陸が訊くと、穂はこちらを見ないまま、

「さあ、どうかな」

と唸るように言って首を捻った。

「お前、今日、無断で早退したんだって?学校から会社に電話がかかってきた」

陸はぎくりとした。まさか、会社にまで連絡が行くとは思っていなかったのだ。普段、学校から自宅の電話へ留守電が入っていても、陸は穂が帰宅する前に消去していた。

「出席日数、危ういらしいぞ。気を付けろよ」

陸は、穂が頭痛がすると言った本当の意味がやっと分かった。

「……ごめん、もう迷惑かけないから」

「そういうことを言っているんじゃない」

穂は箸を置いて陸に向き直った。

「お前は俺に心配かけまいと、何かあっても隠すから、余計心配になるんだよ。何かあったらすぐに言え。そうすれば、俺も無駄に頭を悩ませなくて済むから」

「……ごめん」

陸は、穂はこう言われることが一番参ると知ったうえで謝った。穂は溜息をついて、机に肘をついて額に手を当てた。

「……悪い、何も怒っているつもりはないんだが、言い方が分からないんだ。あまり詮索されるのも嫌だろうから俺も抑えるが、……何かあったら、必ず言えよ」

難しい年頃の自分との距離を推し測り、思い悩む穂の想いが陸は嬉しかったが、同時に煩わしくもあった。甘えたい気持ちは山々だが、適切な甘え方というものが、陸には分からなかった。

 

陸はベランダへ出て、夜風にあたった。ここはマンションの11階なので見渡しがよく、道行く光の動きによって街の流れがよくわかる。これから家路につく者がある一方、これから何処かへ向かう者もあるのだろう。彼らには確かに来た場所があって、向かう場所がある。だが陸は、自分が何処から来たのか、これから何処へ向かっていくのか見当も付かず、暗闇へ手を伸ばし探し求めては、恐ろしい空虚を思い知るばかりだった。

陸は目を瞑り、おもむろに自分の髪を撫でた。こうすると、亡き父の手の感触を思い出すのだ。そして、あの穏やかな声が蘇る。

――「お前の髪は、瞳深(ひとみ)に似て、本当に綺麗だな」

そして陸は、今は何処にいるのかも、生きているかすらも分からない母も、かつて同じ感触の中に安らいだのだろうと想像するのだった。

冷たい風の匂いはどこか懐かしく、言い様もなく陸の胸を突いた。

 

授業が終わり、真尋が講義室を出ようとしたときだった。

「池田さん、ちょっと来なさい」

呼び止められ、真尋は教壇の傍へ行った。

「何ですか、」

「ちょっと待っていなさい」

そう言って講師が勿体ぶって回収したプリントをまとめているのを待っている間に、講義室内に他の学生はいなくなってしまった。真尋がしまった、と思っているうちに、講師が切り出した。

「君さあ、小テストの成績は申し分ないんだけど、出席日数がすでにアウトなんだよねえ」

「……」

「留年はしたくないだろう。まあ、去年と同じことだよねえ。分かるよね」

男は真尋に詰め寄り、彼女の腰に左腕を回した。嫌に火照ったその手は、真尋を凍て付かせた。薬指には銀色の指輪が光っている。授業中に時々、彼が幼い子供の自慢をしていたことを、真尋は思い出した。

夕焼けの過ぎ去った、月白の時間帯。明るいのか暗いのかうまく判断がつかず、これから日が昇るのか沈むのかも、よく分からなくなる。目の前を行き交う黄色いヘッドライトが妙に綺麗で、吸い込まれそうになる。

真尋はスーパーへ寄り、必要な食材をカゴに入れながら店内を歩いていると、鮮魚コーナーである魚が目に留まり、引き寄せられた。シュッとした身に鋭利な頭をした、青銀に輝く魚。真尋には、それがあるものに見えてならなかった。

帰宅すると、部屋はすっかり暗くなっていた。真尋はワンルームの部屋に一人で住んでいる。部屋へ入ると、白地のカーテンに広がった大きな赤い染みが真っ先に目に入る。この間、音楽を流しながら一人で赤ワインを飲み、歌って踊っていたら、ワインを零してしまったのだ。また、以前、部屋の雰囲気を明るくしようと買ってきた花の鉢植えは、面倒を見きれずに枯れており、かえって物寂しさが募った。

真尋はさっそく夕食の支度に取り掛かった。好物の唐揚げを作ろうと買ってきた鶏のもも肉をまな板の上へ置き、包丁を手にしたときだった。耳の奥から、嫌な声が繰り返し響き始めた。それと同時に、思い出したくない感触までもが蘇ってきた。

真尋は、まな板の上の肉を、何度も何度も刺した。原型を留めぬまでに、無心になって刺し続けた。

 

翌日、真尋が講義室を出ようとしたとき、また同じように呼び止められた。例の講師が受け持っている科目だった。

男は昨日と同じように真尋を脅し、腰に手を回そうとしてきた。真尋はおもむろに鞄へ手を突っ込むと、銀色に光るものの切っ先をのぞかせた。すると、講師はひぃっと声を上げ、三歩ほど逃げるように後退った。真尋は間髪を容れずに男へ詰め寄り、彼の左胸に勢い良くそれを突き立てた。男は恐怖のあまり、息を吸い込むような声にならない悲鳴を上げたが、胸に走った痛みは予想と違って、ほとんど殴られた、という感じだった。

茫然として状況を理解できない様子の男を、真尋は上目遣いで見て微笑むと、急に堰を切ったように笑い出した。その笑い声は、普段の上品な言葉遣いで喋る彼女からは想像も付かないようなものだった。そして真尋は、男の顔めがけて秋刀魚を投げつけた。男のかけていた眼鏡が床へ落ちるのと同時に秋刀魚が床に叩きつけられ、べちゃっという、特有の嫌な音が響いた。真尋はその様子を見て一層笑うと、部屋を出て行った。講義室には、まだ動けずにいる男と、死んだ魚が取り残された。

 

まだグラウンドに沿って植えられた銀杏は色づいていないものの、広葉樹の落ち葉がすでに校内のいたるところに広がっており、夕焼けに染まってひやりとした風に運ばれてくる金木犀の香りは、すっかり秋めいている証拠だった。

陸は教科書やノートの詰まった、あまり慣れない重みの鞄を持って他の生徒たちに混じって下校していると、門の前に見覚えのある女が立っていた。こちらに気付いたらしく、手を振ってきた。真尋だ。陸がそのまま歩いて近付き、声をかけようとしたときだった。

真尋が背中へやっていた手を動かして、銀色に光る切っ先を陸に見せた。陸は一瞬、ぞっとして、血の気が引くのを感じた。

すると、真尋は吹き出すように笑ってから、秋刀魚を掴んだ手を前に出し、穏やかに言った。

「ナイフじゃないよ、秋刀魚だよ」