レモンとナイフ(1)
沈みかけの西日は、赤いというよりほとんど黄色で、それを直に正面から浴びている陸からは、向かいの席に座る乗客たちの顔が薄黒く見えた。
帰宅ラッシュとまでは行かないが、ちょうど部活などをやらない中高生たちの帰宅時間となっているため、それなりに座席は埋まっている。どこからか、笑い混じりの男の話し声が陸の耳に入ってきた。
「なんだ、あのロン毛」
陸は、鞄から手を出さないまま、右手に静かに白い手袋をはめた。ちょうど次の駅に着く頃を見計らって、手袋をはめた右手でそのまま鞄からあるものを一つ掴み取り、そっと、席の隅に置いて電車を下りた。
西日を切りながら、電車が再び動き出す。臙脂色の布張りの座席の隅に残されたのは、紡錘形の、目の覚めるような黄色をした果実だった。
衣替えの期間に差し掛かったが、ブレザーを羽織るにはまだ暑く、ワイシャツの上に指定のセーターを着て登校するのが生徒たちの定例となっていた。陸ももれなく周囲の生徒たちと同様の格好をして登校してきたのだが、全校集会を終えて体育館を出る際、生徒指導の教員に呼び止められた。
「吉岡、髪を切れと何度も言っているだろう。男の癖にみっともない」
「すみません」
「それに、うちは染髪禁止だぞ。黒くなおしてきなさい」
「元からこんな色です」
「そんなわけないだろう、」
中年の小太りのその男は、そう言って陸の髪を鷲掴みにして持ち上げ、色の具合を見た。陸は全身に虫唾が走るのを何とかやり過ごし、いつものように「そのうち」と言って教員の手を払い除け、体育館を抜け出した。そして、教室に着くなり、席へはつかずに鞄だけ取って、そのまま教室を出た。
まるで空間を隔たれたようにしんとした、誰もいない学校のプール。秋晴れの空を切り取ったような水面を、ただ風が撫でる。遠くから、体育館から校舎へ戻る生徒たちの話し声や笑い声が響いてくる。
陸は、子供の背丈ほどのフェンスを超えてプールサイドへ入った。鞄をフェンスにもたれるように置くと、制服を着たまま、頭からシャワーを浴びた。晴れているとはいえ、水浴びをするにはもう寒い季節だ。だが、陸は、浴びずにはいられなかった。あの男の汚い手で髪に触れられた感触を、全身から洗い流してしまいたかったのだ。それが一時でも埃のように衣服に留まることも我慢ならなかった。陸は、しばらくそのまま流水を浴び続けた。
セーターとワイシャツとスラックスを脱いで固く絞ってから、再びセーター以外を身につけると、陸は持ってきていたタオルで髪と顔と手をあらかた拭いて外へ出た。学校のプールは、裏道に面している。陸は、右手に白い手袋をはめると、鞄から例の果実を取り出し、プールへ投げ入れた。ぽちゃん、という音に、陸は頭の中で違う音と光景を重ねる。やっと落ち着いてその場を離れようとしたときだった。
目に前に人がいた。長い黒髪と、水色のプリーツスカートを靡かせた、若い女だった。彼女は左の小脇に一冊の本を抱え、右手に白いソフトクリームを持っていた。
陸は見られてしまったことに動揺して動けないままだったが、頭の中では――自由の女神?――などと呑気なことを思った。
そんな陸の緊張など気にも留めぬ風に、彼女は口をひらいた。
「テニスボール?……ていうか、どうしてびしょ濡れなの、」
「……なんでもありません」
女は、足早に立ち去ろうとする陸の湿ったシャツの袖を掴んだ。
「ちょっと話しましょうよ」
「なんで……」
「なんだか、あなたとは気が合いそう」
「……は?」
陸は振り払おうと思ったが、この格好では電車には乗れないと気付き、服がある程度乾くまでの暇潰しにはなるかもしれないと考えた。
近所の公園へ向かう途中、女はわざわざ服屋や雑貨屋などの立ち並ぶ、人通りの多い道を歩いた。もちろん、道行く人々は、全身びしょ濡れの陸をじろじろと見た。
「どうしてこういう道を通るんですか、もっと裏道とかあったでしょう」
「だって、びしょ濡れの人を連れて街を歩いているって、面白いじゃない、」
「は?」
そして、「ちょっと待ってて」と言って女は陸に本を押し付けて、ソフトクリームを持ったまま、すぐ傍のファーストフード店へと入って行った。女が用事を済ませている間、陸は通行人の視線に晒された。今すぐにでも逃げ出したいが、物を預けられているためにそれも叶わず、手持ち無沙汰で女に押し付けられた本の表紙を見た。そこには、『華々しき鼻血』という題名が記されていた。
少しして店から出てきた女は、ドリンクカップを二つ持っていた。
「……ソフトクリームは、」
「溶けてきちゃったから捨てたわ」
陸は、この人は自分とは全く違う種類の人間だ、と思った。自分もたいがい普通というものからずれていると思っていたが、この女は、さらにずれている。
「はい、コーヒー」
女は持っていた片方を陸へ差し出した。陸は礼を述べてそれを受け取ったが、予想していたのとは真逆の温度だったので、驚いて取り落としそうになった。
「この季節にアイスコーヒーって、寒くない、」
「私、猫舌なの」
「……そうですか、」
やっとの思いで公園へ辿り着くと、二人は並んで木製のベンチへ座った。平日の昼下がりとだけあって他に人影もなく、色づき始めた梢の音だけが心地よく響いた。しかし、天気がいいとはいえ、心地よいはずのそよ風は、まだ全身が濡れている陸には肌寒かった。
ここまで歩いてくる間にも、髪だけはだいぶ乾いてきていた。緩やかなウェーブのかかった、肩まである栗色の髪が、風が吹く度に靡く。女はそれを眺めながら言った。
「髪、綺麗だね」
それは、陸が大きくなってから、初めて言われた言葉だった。
「あんた、変わってるね。男の癖にとか、何で伸ばしているのかとか、訊かないんだ」
「別に、髪型なんて人の自由じゃない」
女はそのまま言葉を続けた。
「私ね、小さい頃からずっと、長い髪が好きだったのだけれど、通っていた中学校がすごく厳しくて、肩より長い髪は結わなくてはいけない校則があったの。しかも、結い方から髪ゴムの色まで指定されていたの。でも私、髪を風に靡かせたいから、指定外のハーフアップをしていたのだけれど、それで先生から呼び出されて、指定の結い方をして来いって説教されて。むかついて、その日のうちに、短くバッサリ。でも、腹の虫が収まってから鏡を見たら、すごくショックで大泣きして、それから一週間学校を休んだわ。髪って、私の体から生えているものじゃない、どうして他人にあれこれ言われなきゃならないのかしらって思ったわ。あのことは、今でも恨んでいるし、殺したい」
陸も妙に共感して、二人の会話は盛り上がった。話しているうちに、彼女は真尋という名前で、大学生だということが分かった。
「陸くんって、こんな時間にびしょ濡れで歩いているから、ちゃらんぽらんなのかと思ったら、案外、鞄は膨れているのね」
そう言って真尋は、陸の鞄を手繰り寄せた。ファスナーを開けると、そこには、濡れたセーターと白い手袋と、たくさんの黄色い果実が詰まっていた。
「まあ、たくさん。さっきプールへ投げていたの、テニスボールじゃなくて、レモンだったのね」
「むかつくことがあると、その場所に置いたり、投げ込んだりするんだ。いつか読んだ小説で、レモンを爆弾に見立てていたから」
「なにそれ、素敵。私もやりたい」
真尋は目を輝かせて詰め寄った。陸の服も、水が滴らない程度には乾いてきていたので、二人はそのまま、真尋の通っている大学へと向かった。ビルのように立派な外観をしたその建物は、陸の高校から徒歩5分ほどの場所にある、この辺りでは有名な大学だった。
「勉強は面白いけれど、つまらないのよね、ここにいる人たち。私のこと妙に避けるし」
真尋は陸の鞄からレモンを取ろうとしたが、陸がそれを制した。
「待って、これつけて」
陸が白い手袋を差し出したが、
「何を怖気づいているのよ、たかがレモンよ」
真尋は、素手でレモンを取って、大学の敷地内へ投げ入れた。そして、彼女は目を瞑った。どんな音と光景を想像したのか、陸には分かった。
「はあ、なんだかすっきりした」
「俺も、寄りたいところがある」
次に二人は、陸の高校へと戻った。プールと並んで裏道に面した駐車場へと入ると、シルバーのセダンの前で立ち止まった。
「今日、この車の持ち主に髪に触れられたんだ」
陸がその車のボンネットの上にレモンを置くと、真尋も並べてもう一つ置いた。その場を立ち去りながら、二人は同じ音と光景を想像した。