槿花の夢

まちをとり囲むような山々は日の光を浴びていかにもこの季節らしく青々とし、窓に染み入る蝉の声は止むことを知らぬように延々と続く。

指導員が教室へ入ってきてエアコンの電源を入れたことにより蝉の声も遠のき、生徒たちもやっと勉強をする気になってくる。ひとくくりに生徒といっても、ここは自動車学校なので様々な年齢層の者が混在している。大学の講義室とはまた違った風景の教室に、ここへ来て一週間が過ぎた董矢(とうや)もようやく慣れてきた。

指導員が自身の腕時計と教室の掛け時計を交互に確認し、そろそろ授業を始めようと教本を捲りながらこれから学ぶ内容を説明し始めたときだった。教室へ入ってくる者があった。この教習所はかなり時間に厳しく、少しでも時間に遅れれば教室へ入らせてすらもらえないため、危うい時間に来る者は珍しい。董矢も周囲の動きにつられてそちらの方へ目を向けた。その先にいたのは、董矢と同じような年頃の青年だった。おそらく大学生だろう。董矢はその顔になんとなく見覚えがあるように感じたが、俳優か何かに似ているだけだろうと思った。それくらい整った顔立ちをしているが、つんとした表情で下ばかりに目線を向けていて、どこか近寄りがたい雰囲気を放っていた。董矢は容姿の良い人間は自分に自信があり、なおかつ周囲と友好的だという偏見とも呼べそうな印象を持っていたので、彼の持つ閉鎖的な空気は董矢にとって意外なものだった。それは、顔立ちの良さから単純に周囲から優しくされたりちやほやされたりしてきたような質ではなく、それによって幾度か悲惨な目に遭ってきたために、人を寄せ付けまいと神経を張り詰めているといったような印象だった。

彼が無言で董矢と通路を挟んだ隣の隣の席へ着くと、指導員は授業内容の説明を再開した。

董矢は頭に何かがぶつかったのを感じて目を覚ました。授業を聴きながら眠気と闘っているうちに、居眠りをしてしまっていたのだ。覚めきらない頭でそう認識している間に、足元へ紙くずが落ちた。おそらくこれが頭に当たったものの正体なのだろう。董矢は指導員が教本に目を落としているのを確認してから拾い上げ、開いてみると、それは手荒くノートから破られた一ページで、黄色の蛍光ペンで「起きろ!」とだけ殴り書きされていた。董矢は静かに周囲を見渡してみたが、こちらを見ている者はおらず、紙くずを投げた人物を特定することができないまま授業を終えることとなった。

そのまま空き時間を迎えた董矢は、眠気を覚ますため駐輪場にある自動販売機で缶珈琲を買った。よく冷えたそれをその場で開けて飲んでいると、背後から人が歩いてくる気配があったので脇へ避けて自動販売機の前を開けた。

「久しぶりだな、村瀬」

董矢は近づいてきた人物がまさか自分に用があったとは思わず驚いて振り返ると、そこには、先ほどの授業でぎりぎりの時間に入って来た青年が立っていた。董矢が解せない顔をしていると、青年はさきほどよりいくらか寛いだ表情を見せた。

「憶えていないかな。ほら、小学6年のときに転校した」

董矢は遠い記憶の中にいる、この青年の面影と一致する少年を一人見つけた。だが、この青年とは苗字が一致しなかった。その少年は今川遥章(はるふみ)という名前だった。しかし、さきほどの授業で指導員から源簿を返される際、彼は西本と呼ばれていた。

「……それは確か、今川だったろう」

「両親が離婚して苗字が変わったんだ。今は西本」

「そうだったのか、久しぶりだなあ。じゃあ、お袋さんの実家がこっちなのか」

「そういうこと。村瀬は、大学がこっちなのか?」

「いや、俺は合宿で来ているんだ。大学は東京だよ」

彼らがこのようにまともに言葉を交わすのは、実はこれが初めてのことであった。何しろ小学生時代も二人の間には特に交友関係がなく、挨拶程度しか言葉を交わしたことがなかった。といっても、あるひとつの出来事を除けばの話だが。

「合宿って普通、大学の友達とかと一緒に来るものじゃないのか」

「まあ、そうなんだけど」

董矢は誤魔化すように薄く笑った。そもそも、董矢が大学へ上がって初めての夏休みをここで一人で過ごすこととなったのは、上手く友人を作ることができず、大学生活に息苦しさを感じていたからだった。一人どこか遠くへ行く口実が欲しかったのだ。普通に旅行へ行くよりも、免許合宿ならば長期間滞在することができ、なおかつ両親が資金の半額を援助してくれる。その上、当然ながら免許取得も叶う、というわけだ。

董矢が言い淀んでいるのを察してか、遥章もそれ以上掘り下げようとはしなかった。董矢は何気なく手を突っ込んだポケットの中で、カサっと音を立てるものに触れて思い出した。

「そういえば、さっきこれを投げたの、お前か」

董矢は先ほどの紙くずを取り出してみせた。

「ああ、頭がぐらぐらしていて、見るからに危なかったからな」

「おかげで助かったよ」

居眠りが指導員にばれた場合、欠席扱いとされてしまうのだ。通学ではなく合宿で来ている董矢にとって、それは避けたいことであった。

「今日はあと何限があるんだ?」

遥章は自動販売機で缶珈琲を買いながら聞いた。

「五限の技能だけ」

「じゃあ、それが終わったら何処かへ行こうぜ。案内してやるよ。どうせ4時まで寮へは戻れないんだろう」

五限目は昼の2時から3時までだ。早くに授業を終えても、合宿生は4時まで部屋へ戻ることができないという規則がある。

小学生の頃に特別に仲が良かったわけでもないうえに、遥章は人と会うのが好きな質にも見えないので、彼が自分を誘ったことに董矢は疑問を抱いた。だが、董矢ももともと五限目を終えたら観光へ行くつもりであったし、慣れない土地ではやはり地元の人間が一緒にいた方が心強いため、断る理由もなかった。

もう時刻としては夕方ではあるのだが、日が沈むまではやはり蒸し暑い。二人は渡月橋の傍にある木陰へと逃げ込んで、桂川を眺めながら、どんどん溶けてゆくソフトクリームを食べた。抹茶味で、白や緋や橙など、和色で統一されたカラフルなあられの粒が散りばめられていて可愛らしい。味はまあまあだが、こういうものは見た目で楽しむことが重要なのだ。

渡月橋や土産物屋の通りを行き交う観光客には日傘をさしている者も多くいるが、日焼けなど気にしないのか、ノースリーブから出した肩を真っ赤にしている者もいる。近年は一層外国人観光客の数が増えており、董矢が中学の修学旅行で来たときにはなかった賑わいがあった。

二人が逃げ込んだ木陰には碑が建っており、そこには歌が記されていた。

――一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に ひかれて来にけん望月の駒――――

「なあ、」

そう呼びかけられて、董矢ははっとした。人といても、つい考え込んでしまう癖がある。

「橋口って、覚えているか」

それは、小学校の同級生の名前であった。彼は高校二年のとき、交通事故で亡くなった。ちょうど今頃の季節の出来事であった。当時、友人伝いで董矢の携帯へもそれを知らせるメールが来ていた。おそらく遥章も同様だろう。

小学校時代、少年野球をやっていて活発だった橋口は、クラスの人気者といったような人物だった。どちらかというと目立たない児童であった董矢と遥章は、どちらも彼とはあまり関わりがなかった。

「さぞ無念だったろうなと、今でも思うんだ」

遥章は、足元に転がっている蝉の死骸を眺めていた。ぼんやりとしたその横顔はとてもきれいで、今、唯一傍にいる董矢は、何だか自分が特別な人間であるかのような錯覚に陥った。

「そうだな。たった十七で――」

「そうじゃない」

遥章は、半ば董矢の言葉を遮るようにして声を発したが、声色は変わらず、極めて落ち着いていた。表情と同様、ぼんやり、といった方が適当かもしれない。

「橋口は冬生まれだった。まともに話したこともないけれど、俺と誕生日が近かったから、それだけは覚えている……。それなのに、夏に死んだというのは、さぞ無念だったろうなと……」

「……何故?」

冬生まれは冬に死にたい。そういうものだろう」

「そういうものかな」

董矢はその理屈が理解できず、向こう岸の山を仰いだ。そこで、急に耳の中へ蝉の声が流れ込んでくるのを実感した。当たり前のように延々と続く音は、時折あることを忘れる。

「そういえば、告別式には出たのか、」

「出ていない」

「俺も」

遥章の横顔には、どこか安堵の色が見えた。

蝉の声に続き、川の音や、通りの雑踏の音が二人を包み込んだ。桂川は緩やかに流れているように見えるが、音は轟々としていて威厳がある。

流水は二度と同じ場所を通らないというが、蝉の声にもまた似たところがある。蝉は夏に地中から出てきて、たった七日で死んでゆく。つまり、当然ながら、去年の蝉と今年の蝉は、一匹の例外もなく、まるきり違うのだ。季節は毎年同じように巡ってくるが、その人格は違うのだ。彼らのこの夏もまた例外なく、幻のように過ぎ去って死んでゆく。

次に董矢が遥章と会ったのは、案外すぐだった。

午後になって最初の時限が始まる前に、二人は教習所のロビーでたまたま顔を合わせた。

「どこまで進んだんだ、」

「これから見極め」

「ということは、明日卒業か。合宿はやっぱり進みが早いな」

「受かれば、の話だけど」

「今日も時間、大丈夫か」

遥章も今日は次の学科のみで、董矢も次の時限に実技を終えれば今日はもう何もない。二人はまた、ロビーで待ち合わせて出掛ける約束をした。

董矢のリクエストで、バスで清水寺の方へと向かった。遥章が寄りたいところがあると言い、清水寺からは少し遠い四条京阪前で降りた。大和大路通りを通って松原通りへ入り、清水寺を目指した。その途中、六波羅蜜寺と飴屋へ寄った。その飴屋は日本最古の飴屋らしく、幽霊子育飴という奇妙な名前の飴を売っていた。

「祖母が好きなんだよ、この飴。陽にかざして、いつまでも眺めている」

そう言って一包買う遥章につられて、董矢も記念に一包購入した。

飴なのに眺めるのか、と不思議に思っていたが、包を解いてみて董矢も納得した。ひとかけら取り出して見ると、それはまるで琥珀のように美しかった。あいにくの曇りで陽にかざすことはできないが、それでも十分に濃密な光を湛えていた。口に含むと、少し香ばしい優しい甘みが広がり、どこか懐かしい思いがした。

そのまま松原通りを上ってゆき、二人は清水寺地主神社などを満喫した。昨日よりはいくらか打ち解けた雰囲気で会話しながら坂を下っていると、ぽつぽつと雨が降ってきた。次第に雨足は強まり、いつしか大雨となった。傘を持っていない二人は咄嗟に近くのビルの軒下へと駆け込んだ。それでも雨があまりに強いせいで、地面に打ち付ける度に水飛沫が体にかかる。降り出して五分も経たないうちに路の両端には川のような流れができていた。二人とも、服はとうにびしょ濡れだった。

董矢はある遠い記憶が蘇ったが、それから目を逸らすように口を開いた。

「夕立かな、それにしてもすごい雨だな」

「遣らず雨、かもよ」

え、と董矢は聞き返したが、あまりの雨音にかき消されて届かなかったのか、遥章は何も答えなかった。

「あの時のこと、覚えているか」

その真面目な声色に、董矢は制されたような気がして、思い出していないふりをするのを諦めた。

「ああ、」

七年前のちょうど今頃の季節、夏休みへ入る直前のある日のことだった。

図書委員の当番だった董矢は、放課後に図書室に残っていた。ひとり黙々と先生に頼まれた仕事をしているうちに、雨が降りだした。

董矢は予報で夕方から雨が降ることを聞いていたので、ちゃんと傘を持ってきていた。傘を広げて昇降口を出ると、もうとっくに他の児童たちは下校していた。雨が降っているので、いつも校庭で活動をしているスポーツ少年団の姿もなく、あるのは雨音だけだった。普段、賑やかな学校しか知らないので、このようにしんとした校舎が、当時の董矢には恐ろしかった。

早く家へ帰ろうと足早に正門へ向かって歩いていると、低学年の昇降口の軒下で、誰かが雨宿りをしていた。低学年の昇降口はとっくに施錠されている時間だ。通学帽をかぶって俯いているので顔は見えないが、身長からして高学年だった。その様子は明らかに普通ではなく、董矢は傍へと寄った。

「傘、忘れたのか」

顔を覗き込んでみると、それは遥章だった。当時、彼らは同じクラスだったが、話したことはほとんどなかった。遥章は、肩を小刻みに震わせて、歯を食いしばって泣いていた。話しかけてもこちらとは目を合わせず、睨むようにじっと地面を見つめていた。

「忘れたのだったら、貸そうか。俺、家近いから」

返事はない。

「どうしたんだよ。誰か先生、呼ぼうか」

そう言って董矢が空いていた手で遥章の背中を摩ると、すぐに振り払われた。

「構うな、あっちへ行けよ」

「でも、」

「いいから、あっちへ行けって!」

遥章は涙を流しながら鋭い目つきで董矢を睨み、董矢の傘を突き飛ばした。傘は地面へ転がり、水溜りに落ちた。仕方なく、董矢は傘を拾ってそのまま家へ帰った。

董矢が最後に遥章の姿を見たのは、終業式の日だった。他の児童たちが夏休みに期待を膨らませて落ち着きのない中、遥章だけは浮かない顔をしていた。夏休みを終えて新学期をむかえると、もう教室の中に彼の姿はなかった。夏休みの間に京都へ引っ越したのだと担任から告げられた。

「あの時のこと、ずっと謝りたかったんだ。だから、教習所で村瀬を見かけたときは、本当に驚いたし、動揺した」

遥章が必死に言葉を絞り出しているのを感じて、董矢はそれを見守った。

「あの頃は、両親の離婚が決まって色々と揉めていて、自分がどうしようもなく子供で、どうしようもなく無力なことに嫌気がさしていたから、優しくされるのも辛かったんだ……でも、事情を知らない人間には、そんなこと知ったことではないから、あんな態度をとるべきではなかった……あの時は、本当に悪かった」

「謝るべきなのは、俺の方だ。後になって、人は泣いているとき、必ずしも助けを求めているわけではないと分かったから。自分では手を差し伸べているつもりでも、その手が相手の自尊心を押しつぶしてしまうこともあると、分かったから……」

短い沈黙の後、遥章が笑い声を零した。

「お前、人付き合い苦手だろう」

「どうせ、そうだけど」

董矢は少しいじけてみせた。

「いや、俺と似ているから、そうだろうと思って」

そうこうしているうちに、いつしか雨も小降りになっていた。二人はビルの軒下から飛び出し、小走りで地下鉄の駅を目指した。遥章の予想通り、近くのバス停には行列ができていた。

二人は董矢の寝泊まりしている寮の最寄りで地下鉄を降り、近くの商店街にある蕎麦屋で夕食を済ませた。

雨がやんでから一時だけ暑さが蒸し返したが、さすがに夜の十時を過ぎるとかなり涼しく過ごしやすい。夕方の大雨で濡れた服も、だいぶ乾いていた。遥章も家の方向がある程度一緒らしく、二人は董矢の寮へ向かって歩いていた。

「じゃあ、俺こっちだから。明日の卒検、頑張れよ」

突然、遥章はそう言って、警報音の鳴り始めた踏切をわたり始めた。董矢も後を追おうと思ったが、しりごみして間に合わず、ポールが降りきる前に彼が無事にわたりきるのをはらはらしながら見届けた。遥章がなにか短い言葉を発した。だが、接近してくる電車の音が邪魔をして、上手く聞き取れない。そしてそのまま、こちらに手を振る遥章と董矢の間を、轟音を立てながら電車が通った。

電車が通り過ぎると、踏切の向こうにはもう、彼の姿はなかった。電車の過ぎ去った風の名残で、路の傍らに植えられた木槿がいつまでも揺れていた。たくさんつけた白い花は、どれも萎んでいた。また明日の朝、新しい花を咲かせるのだろう。

翌日、董矢は無事に卒業検定に合格した。昼に一旦荷物をまとめに寮へ戻った際、昨日の踏切の方へ寄った。昨晩とは違い、木槿が凛とした美しい白い花をいくつも咲かせていた。

董矢は踏切の向こうを眺めた。

「聞き間違いだったのかな」

その問いは、何処へともなく消えていった。今となっては真偽を確かめる術もない。