お話

青夏(せいか)のみぎり(1)

見晴らしのよいこの部屋に千一(ゆきひ)が転がり込んでから、早一ヶ月が過ぎた。今年から院に上がった従兄の守(まもる)が、彼の兄である浩司(こうじ)が妻も引き連れて海外へ長期出張をしている間に借り受けている部屋である。同じく今年度から都内の大…

からから

川辺の風は切り裂くように冷たく、だんだんと頬や耳の感覚が奪われてゆく。僕は言わずにはいられなかった。 「遠くへ行きたい。」 「遠くって、どこ。」 「僕のことを知る者がいないような、とにかく、遠く、遠くにあるところだ。」 僕は一瞬口篭って、また…

色玉

色玉。それは、数ある駄菓子屋の中でも「朧月屋」でしか手に入らない希少な飴玉だ。ひと袋二百円もする。噂によると、それを手に入れられるのは店の馴染み客だけだというが、どんな馴染み客もその実物を目にしたことはなかった。晶もその一人だ。彼はもう五…

シリウス

Pm9:00 水貴は日課の散歩に出た。冷たい一吹きの風が吹き付けた。どこか懐かしい匂いがして、瞳が潤む。見上げた空はすっかり澄み渡り、星がよく見えた。 まだ夜になったばかりだが、街はすでに静けさに包まれていた。いつものように川沿いの道を歩いている…

紫陽池

あるところに、それはそれは美しい娘がいた。名は紫陽という。その母である藤奈もまたやはり美しく、若き頃には村一番の縹緻よしと言われていたが、自然とその称号は年頃を迎えた紫陽に受け継がれる形となった。 紫陽も藤奈も透き通るような白い肌をしており…

雨に願う

空は重たく薄墨色に曇り、いつ雨が降り出してもおかしくない。雨が降ればあの人は来ないことを知っている。雨にどうか降らないでくれと願う。 私の願いを聞き入れてくれたのか、雨は降らずにいてくれた。 あとはあの人が訪ねて来るのを待つのみだ。待ちかね…

地下鉄

用事を済ませ、家路につこうと地下鉄に乗り込む。進む道はただただ単調に暗闇が続くばかりで、窓外を眺めていると気が狂いそうになってくる。しかし、すいているだけまだましだ。ぎゅうぎゅうに混んだ地下鉄の車内は呼吸すらままならず、酸欠で頭がぼんやり…

迫るような雨音には忍び寄る幻影の香が幽かに漂って、その気配に攫われてゆく期待と二度とは戻れぬ怖ろしさとが、互いに満ち引きを繰り返す。しかし、緊張感を持ったまま一向に間近に訪れる様子はなく、幻影は外からではなく、内からやってくるものなのだと…