紫陽池

あるところに、それはそれは美しい娘がいた。名は紫陽という。その母である藤奈もまたやはり美しく、若き頃には村一番の縹緻よしと言われていたが、自然とその称号は年頃を迎えた紫陽に受け継がれる形となった。

紫陽も藤奈も透き通るような白い肌をしており、それは田舎の村では大変珍しいことであった。その秘訣は梅色の粒にあった。紫陽は藤奈のいいつけで梅色の粒を幼い頃から飲み続けていた。やっと物心のついたような幼い頃のある日、藤奈から「これを飲み続ければ美しくなれる」と言われたのだ。それを母が毎朝ひと粒を口にしている姿をずっと見てきた紫陽は、母の言うことを少しも疑うことなく、素直にいいつけを守った。そのおかげかどうかは知らないが、紫陽は見事に雪肌の美しい娘に育った。

だが、紫陽が美しく天真爛漫に育って行くにつれ、藤奈は寝込むことが次第に多くなっていった。かつては冴え冴えとしていた雪肌も、近頃は白いというよりも青いという方が的確であった。暗い部屋の中で横たわりはだけた着物から覗く藤奈の胸や手足は、まるで皮膚の下が冷たく青く燃えているかのように紫陽の目に映った。紫陽はこの母の姿に、健康だった頃を上回る恐ろしい美しさを感じた。この世のものとは思えぬような妖艶たる衰退の美がそこにはあった。

 これもまた梅色の粒の作用である。梅色の粒の正体はヒ素という毒薬で、その皮膚上の道理を阻害する作用により肌が焼けることがなく、また、当然たる健康障害として肌が蒼白になるのである。藤奈の症状は、長い間ヒ素を摂取してきたことにより徐々に内臓が蝕まれていった結果と言えよう。元よりこれらの事実を彼女たちが知る由もなく、梅色の粒を体調不良の原因だと疑うこともなく摂取を続けた。というより、断ってしまうと酷い禁断症状に襲われてしまうため、続けざるを得なかったのである。

 藤奈の症状がひどくなっていく中、紫陽もまた原因不明の病を患ってしまった。左腕に無数の小さな水疱ができたのである。予てから美に固執し、自分の美しい肌を自慢に思っていた彼女にとってそれは極めて甚いことで、症状が進行するにつれて次第に家から出なくなっていった。はじめは左腕のみにできていた水疱の群はだんだんとその範囲を肩、胸、背中、頸、顔へと広げていき、しまいには身体のほとんどを小さな水疱に覆われてしまった。特に最初に症状を呈した左腕がひどく、水疱に水疱が重なりもはや原型を留めず、二倍近くに腫れ上がっていた。その醜く変貌を遂げてしまった紫陽の肌に布を巻くのは、体調を崩している藤奈であった。藤奈の看病を紫陽がし、紫陽の肌に藤奈が布を巻く。互いに面倒を看合い、やっとの思いで生活を送っていた。

 しかし、その生活も短くして終わってしまった。藤奈が死んだのである。それは狂気じみた最期であった。口から赤い血を吐き、苦しい、水をくれ、水をくれと蒲団の上で身をよじらせて苦しんだ。紫陽が器に水を入れてこれを差しだすと、手でそれを払い、器は転がり水は畳を湿らせた。そして紫陽の頸をぐいと手で引き寄せると、自らの唇に布の隙間から覗く紫陽の唇を重ねさせた。藤奈の吐いた血が紫陽の唇と布を赤く汚す。そして紫陽の頸から力なく手を離すと、先ほどまでの苦しみが嘘であったかのように安らかな顔をして眠りについた。

 紫陽はこのとき、母から呪いを受けたのだと思った。自分もいずれ母と同じ死に方をするのだと思い込んだ紫陽は、隣町の山のふもとにある地蔵様へと毎日お参りをするようになった。人目につかぬようまだ薄暗い早朝にでかけて地蔵様にお参りをし、美貌を取り戻すことと、母のような死に方をしないことを願った。そして、皆が仕事に起きる前に急いで家へと戻るのであった。

 ある日紫陽は、地蔵様にお参りをしに行く途中、小石に躓いて転んでしまった。肌に巻いていた布が所々はらはらと解け、それを直すのに手間をくってしまったため、家に戻る時間がいつもより遅くなってしまった。紫陽はなんとか誰にも見られずに済んだと思っていたが、その姿を見ていた者があった。

 ある日、紫陽の家に一人の若者が訪ねてきて、嫁に来てほしいと唐突に頼み込んできた。話を聞いてみると、その男はあの地蔵様のある隣町の者だという。紫陽が自分には家族がないこと、ひどい皮膚病を患っていることを説明しても、男は構わないと言って折れなかった。というのも、この男は体中を布に巻かれた紫陽のその哀れさに惚れ込んだに他ならなかったのである。それを本人に言うはずもないが、一人での生活に限界を感じていた紫陽は有り難くこの申し込みを受けることにした。

 紫陽の頼みから、ごく近い身内のみで祝言は挙げられた。楽しい宴を終えた後、二人は初夜を迎えた。男は布を巻いた身体の上に純白の夜着を着込んだ紫陽を抱き寄せた。そして、夜着をはだけさせると丁寧に布を取り払い、真っ先に最も醜い左腕へと口付けをした。この行為からも、この男の歪んだ愛欲の形が窺える。

 すると突然、紫陽の肌がぱりぱりと音を立て始めた。なんと、水疱にまみれた紫陽の肌から無数の白銀の鱗が生え始めたのである。肌が燃えるように痛む。あまりの痛みに紫陽は狂ったように部屋中をのた打ち回り、何度も壁に身体をぶつけたかと思うと、外へと走り出て行ってしまった。あまりの出来事に、男は呆気にとられたまま部屋にひとり取り残された。

 体全体を青い炎に包まれたような痛みに襲われた紫陽は、水を求めて走り回った。そしてやっと見つけたのは、ある寺の敷地内にある天然の大きな池であった。躊躇する暇もなく、大きな水飛沫を上げてその池へと飛び込んだ。しばらくして波紋が消え、水面が静まり返ったかと思うと、紫陽の姿もまた消えてしまっていた。そして、煌々と照る月の浮かぶ池の水面から、白銀の鯉が一匹、己の美しさを誇示するかのように、ぱしゃりと跳ね上がった。

 

 ある寺にある紫陽池という池には、今もなお、一匹の美しい白銀の鯉がいるという。