幽霊論

私は視えない人だけれど、幽霊の存在を信じている。信じているわりにはホラー映画や怖い話やお化け敷も、あまり怖いと感じずに楽しめるのは、きっと自分が本物を見ることができないと分かっているからなのだと思う。

けれども、そういう体験が皆無というわけではない。小さい頃は心霊写真らしきものを撮ったこともあるし、人が立てるはずのない処に浮いているのを見たこともあるし、聞こえないはずの音を聞いたこともある。でも、全て随分前のことだし、私自身に何の影響もなかったので(多分)、やはり遠い存在だと思っている。

 

あまり縁もないし遠い存在であるにも関わらず興味が湧くのは、好奇心と潜在的な現実逃避願望からだろう。

なので、以前から、幽なものたちは無意識が身体という枠から独立したもの、もしくは残留したものなのではないかと考えたりしていた。

だから、視える人がいても、視えない人がいても、おかしくはない。ここでは心と脳を完全に隔てて語ることが難しいので、その境界は曖昧にしておくが、幽霊に限らず、視える・視えないが分かれる事柄なんて、いくつもあると思う。例えば、人の愛着形成。これは勉強しなきゃ感じられないものだと思うし、理解し辛い構造だと思う。それと、これは人が日常的に使う感覚だけれど、「こういうときに人はこういうことを思っている」みたいなことも、場合によっては、感じられる人と感じられない人に分かれると思う。もちろん、感じられないものの存在には気付くことすらできないので、感じられない人にとっては無いも同然、ということになる。

これは脳の小さな一部が機能しているかしていないかの違いなのではないかと考える。元々、色々な細胞にスイッチが入っているか入っていないかには人それぞれ違いがあると思うし、何かの拍子にスイッチが入ることもあると思うし、学習してスイッチが入ることもあると思う。

分かりやすく例えると、幽霊や動物や木の気持ち・記憶を視ることができる人は、母国語に日本語を持ち、基本的な思考には日本語を用いながらも、脳の片隅でスワヒリ語スワヒリ語脳でそのまま理解するのと同じようなことをやっているのだと思う。(分かりやすいのか分からない例え)

 

何故、幽霊が人に憑いたり、記憶を見せたりできるのかということに関しては、やはり、身体という枠を亡くしたものだからなのだと思う。生きている人間は身体という現実的な枠に縛られているので、当然、人の中に入り込んだりすることなどできない。けれど、幽霊は枠を持っていないので、忍び込んで、細胞に直接アクセスすることができる。無意識的にでも自分の姿形を覚えていれば、相手の脳に直接そのデータが送られるわけだから、見せることも、触れさせて感触を体験させることも可能。まあ、相手がそれらを受容する細胞にスイッチが入っている人であった場合のみ、ということになるけれど。でも、本来は視る力がないけれど、そういう体験をしたという人はたくさんいる。ということは、たまたま波長が合ったという場合を除けば、幽霊が意識的に見せた、ということになるのか……そうなってくると、幽霊が無意識だけの存在、とは言えなくなってくる。だけど、もしかしたら、意識を持ったら消えてしまうものもあるのかな。

まあ、結局のところ、私は視えない人なので真相は分からないし、あまり視たくない。