青夏(せいか)のみぎり(1)

見晴らしのよいこの部屋に千一(ゆきひ)が転がり込んでから、早一ヶ月が過ぎた。今年から院に上がった従兄の守(まもる)が、彼の兄である浩司(こうじ)が妻も引き連れて海外へ長期出張をしている間に借り受けている部屋である。
同じく今年度から都内の大学へ通い始めた千一は、一ヶ月前までは終電を逃してしまったときなどにたまに泊らせてもらう程度だったのだが、2LDKは単身の学生には広すぎたというのもあり、守の提案で空いていた一部屋を使わせてもらうこととなったのだ。
そもそも、二人の通っている学校は最寄が一駅しか変わらずかなり近くにあるため、進学が決まったときから千一も来るよう守から誘われていたのだが、実家がなんとか電車で通える範囲だったというのと、田舎の一軒家に両親が二人きりになる寂しさを案じてなかなか踏み切ることができなかった。しかし、そんな心配は無用だったようで、電車の定期代を考えると無償で部屋を借りた方が得だということで、母である香織が守に同意し、千一の上京を後押しする形となった。
夕方に授業を終えてから、千一は帰りに駅前のスーパーで材料を買い込んだ。二人は夕食を交替で作ると決めているのだ。今日は千一の番だがなかなか献立が決まらず、悩んだ挙句にいつもの天津飯を作ることにした。守にはまたかと指摘されそうだが、簡単であるにも関わらずそれなりに美味く作れるため、あまり料理が得意ではない千一は、献立に困ったときは天津飯を作ることが多かった。
千一はいつも守が帰宅する時間を見計らって夕食を拵えるのだが、料理が完成したところで携帯へ守からメールが入った。今晩は研究室に泊るため帰れないという内容だった。こういうことはこの一ヶ月の間にも何度かあった。千一は承知した旨を返信すると出来上がった一皿を冷蔵庫へと仕舞い、一人で夕食をとった。
翌日、千一が学校から帰宅すると、リビングのソファーで守が眠っていた。千一が帰宅した音に目を覚ました様子で、大きく欠伸をしながら伸びをした。
「おかえり」
寝起き特有のくぐもった声だ。
「ただいま。随分お疲れみたいだね」
「昨日、いきなり研究室のやつらが勉強会をやろうとか言い出して、徹夜で映画三本立て」
「何を観たの」
「『カッコーの巣の上で』、『レナードの朝』、『17歳のカルテ』。一度に観るには重すぎるよ」
守はまだ眠たそうな目で苦笑した。そして起き上がって珈琲を淹れると、千一にも要るかとすすめて、千一は頷いた。
夕日の差し込む薄暗い部屋に、深みのある芳香が満ちる。
「悪いな、昨日。俺の分も夕食を作っただろう」
「いいよ、朝食に回したし」
「埋め合わせはするよ」
「信用ならないな」
千一は試すような目つきで守を見詰める。それに負けた守は、参ったように口を開いた。
「分かったよ、今晩奢ってやるよ。俺も寝不足で夕食を拵える体力はないし。よし、急いで支度しろ」
と言っても、学校から帰宅したばかりの千一はすでに外行きの服を身に着けていたので、寝巻姿だった守の方が支度に手間取ることとなった。
千一が守に連れられてやってきたのは、安さを売りにしたチェーン店の居酒屋だった。少し不服だったが、味はまあまあだった。乾杯のビールの次に水割りを飲んでいた頃、たまたま千一と守の席の脇を通りかかった若い女性客が、守を見るなり驚いたように立ち止った。
「守君じゃない」
「杉崎さん、偶然ですね」
「あら、もしかして弟さん?」
杉崎という二十代半ばと見える女は、ぶらぶらとしたデザインのピアスを着けた右耳を出して、ゆるく巻いたこげ茶色のロングヘアーを左肩にまとめた。そして、千一を見ると軽く挨拶をした。千一はそれに会釈のみで応え、守が否定に入った。
「違いますよ、従弟です。似てないでしょう」
「確かに、兄弟というにはあまり似てないわね。そうだ、これから二件目へ行くんだけど、守君も来なさいよ。この人、お借りしてもいいかしら」
杉崎は半ば強引に守を引っ張って腕を組んだ。その強引さに気圧されて、千一の方もどうぞと言う他なかった。
「え、ちょっと」
杉崎はカツカツとヒールを鳴らしながら、容赦なく守を引きずって行った。守は振り向いて唇の動きで千一に謝罪を述べた。千一は引っ張られて行く守を睨みつけて舌を出した。
千一は手にしていた水割りを一気に呷ったが、女物の香水の残り香が辺りにまだ漂っており、どうも鼻につく。一人で飲むのも気が乗らず、早々に居酒屋を引き上げた。
薄暗い居酒屋から外へ出ると、ネオンの眩しさが目に染みた。この辺りは飲み屋が多いため、夜は昼間に勝る活気がある。そのまますぐに家へ帰るのも癪なので本屋で立ち読みをしていたところ、突然、肩を叩かれた。静かな店内に、千一の間抜けな声が響いた。
「うるさいよ!」
小声でそう言うのは、奈津美だった。千一と同じ大学の同じ学年、同じ学科の学生で、授業や昼食などの学校生活を共にしている仲だ。二人は連れ立って本屋を出た。
「暇でしょう?夕食、付き合ってよ」
「生憎、もう済ませたよ」
「憎たらしいわねその口の利き方。まあいいわ、ユキは飲んでいるだけでいいから」
本当は酒のつまみ程度しか口にしていなかったが、もう夕食という気分ではなかったので、デザートを奢ってもらうという条件をとりつけて、千一は奈津美の要求を呑んだ。
近場のファミレスへと入ると、奈津美はほとんど悩まずにパスタと赤ワイン一本を頼んだ。
「ワインは割り勘だからね」
千一は不意を突かれたようで悔しかったが、デザートを奢ってもらう約束なのでしょうがなく了承した。
ワインを飲みながら、千一は奈津美の食事風景を眺めた。彼女はスプーンを使わずにフォークのみで上手くパスタを纏めて口に運ぶ。皿を引っ掻いて嫌な音を鳴らすことも、ソースを飛ばすこともない。こういう点では、千一にとって男友達と食事をするよりも気が楽だったし、眺めていて心地よかった。
「今日は随分とペースがはやいわね。守さんと喧嘩でもしたの」
千一は十分と経たないうちに三杯目に口をつけていた。
「別にしてないよ。ただあっちが不誠実なだけだ」
千一は思い出して不機嫌そうな顔をした。普段は自分の話を長々とする性質ではないが、ワインで酔いが回ったのもあり、先ほどあったことをつい奈津美に愚痴った。奈津美はパスタやワインを口に運びながら、さも興味がなさそうにそれを聴いていたが、パスタを完食すると、紙ナプキンで口元を拭いてから口を開いた。
「単なる嫉妬でしょう」
「はあ?」
千一は思いのほか語気を強めてしまったことに自分でも驚き、調子を整えるように咳払いをした。
「俺が怒っているのは、自分から言い出しておいて予定を駄目にした不誠実さに対してだ」
「そうかな。私には、自分がその女より優先順位が下みたいに扱われたのが嫌だったって話にしか聞こえなかったけど?」
「そんなこと、一言も言っていないだろう」
「まあ、不可抗力だったんだからしょうがないんじゃない?その女のひと、学校の先輩なんでしょう?」
「多分、だけど。敬語を使っていたから」
「ていうか、人との予定をお釈迦にしてしまったことくらい、ユキにもあるでしょう」
千一は心当たりがあるように思えて記憶を辿ろうとしたが、具体的なことはなかなか思い出せなかった。
「ないよ」
「嘘吐き。そういうことって、やられた側は結構憶えているけれど、やった側はだいたい憶えていないのよね」
千一は心当たりの相手を奈津美かと察し、おそるおそる訊いた。
「悪い、俺、何かしたかな」
「いいえ、されてないけど」
奈津美は平然と言った。
「何だよ、いかにもお前が俺に予定をお釈迦にされたことがあるみたいに言うなよ」
「すみません、」
奈津美は傍を通りかかった店員を呼び止め、二人分のデザートを注文した。
「あんた、亡くなったお兄さんを重ねているんじゃない、守さんに。」
千一には三つ上の兄がいた。彼は四年前に突然失踪し、二年前に実家の近所で白骨化した遺体が見つかった。一時、新聞やニュースにも取り上げられたが、あるはずもない証拠を追いかける警察の捜査には勿論まるで進展がなく、すぐに世間から忘れ去られていった。
千一は大学の他の友人たちには兄がいたことすら話していないが、唯一個人的に食事へ行くことのある奈津美にだけはこのことを話していた。彼女は千一にとってそれほど信頼できる人物だということでもある。
「そんな筈はない。兄と守さんは容姿も性格もまるで違うし」
「そういうことは関係ないのよ。お兄さんという理想像を守さんに押し付けているんじゃないかってことよ。お兄さん、すごく優しい人だったんでしょう」
千一は閉口した。沈黙が流れる二人の間に店員がやってきて、モンブラン二つと伝票を置いていった。
「ごめん、立ち入りすぎたわね」
「いいよ」
しばらく千一は、モンブランを食べることに集中した。先ほどのことに負い目を感じてか、奈津美の方が先に沈黙を破った。
「ユキって、なんか女の子みたいだよね。名前もだけど」
「どこがだよ」
「食べ方が男の子にしては綺麗すぎるのよ、喋りながら飛び散らかしたりもしないし。ちゃんと躾されているなって感じ」
「躾なんかされてないよ、うち、放任主義だし」
「それに、甘い物好きっていうのもねえ」
「今時、そんな奴珍しくないだろう」
そんな他愛もない会話が続いて、二人はいつもの調子を取り戻したところで解散した。

暑さもひどくなり始めた頃、講義室内は薄手の上着が必要となる。教員たちは立ちっぱなし喋りっぱなしで暑いのか、やたらと冷房がきついのだ。余計な持ち物を増やしたくない性質である千一は、ただ寒さに耐えるのみだった。しかし、それでもいつの間にか眠れてしまっている自分に、千一も変に感心した。
講義が終わり、寝起きのだるさが残る中、千一が欠伸をしながらノートや教科書をまとめていると、所々で男子学生たちが騒ぎ始めた。
「誰だよ、あの綺麗な人」
どうやら彼らは講義室の前方の入り口の方を見て騒いでいるようで、つい千一もつられてそちらへ目を向けた。
そこにいたのは、杉崎だった。