茶色い街と金色の少女

走る、走る、走る。

暴力的に投げかけられる言葉も、ちゃんとは聞き取れていない。ただ、それらを身に迫る危険信号として処理し、神経は体の動きに集中していた。

素早く走りながらも手すりから上半身がはみ出さぬように体を屈め、なおかつ足音も息の音も立てない。ここは最上階だ。十一階分の階段と廊下を走り回ってきたということになる。普段の自分ならば確実に不可能なことが、このような非常事態にはできてしまう。これが火事場の馬鹿力というものなのだろうかと少年はぼんやりと考えながら、視覚は隠れられる場所を探していた。どたばたと緊張感のない複数の足音、ぜえぜえと切れた息の音、怒鳴りつけるような声、時折笑い声の混ざった間延びした声が迫ってくる。同じ階へ着いたのだろう。廊下はほぼ一直線だ。追い詰められるように、近くにあった壁の四角くくぼんだ部分に入り込んだ。そこは約1.5m四方の空間になっており、壁三面にそれぞれ一つずつ、同じ大きさの白い扉が付いている。迫る足音。迫る声。少年の住んでいる部屋はずっと下の階だ。ここら辺の部屋の住人など知らない。しかし、近付く音に追い立てられ、少年はやむを得ず、咄嗟に真ん中の扉のドアノブに手をかけた。案外易く扉は開いた。予想外の出来事に戸惑ったが、彼には迷っている時間などなかった。部屋に入り込み、静かに素早く扉を閉め、鍵をかけた。そして、息を殺して覗き穴から外の様子を覗った。背伸びをしているため、結構きつい体制だ。しばらくすると、彼らは部屋の前を通り過ぎていった。

音が遠ざかるのを待って、少年は扉の横の壁に背中を滑らせる形で床に崩れ落ちた。疲労が一気に押し寄せる。体中が痛み、特に脚がひどかった。何故今まで抑えられていたのかが不思議だが、ひどく息が上がり、苦しかった。

息が整い始め、余裕ができ始めた頃、少年はふと思った。こんな所に扉があっただろうか、と。他の階も造りが同じで、壁に複数くぼんだ部分があるが、そのくぼんだ部分の扉は向かい合った二つのみだ。たまたまここだけに三つついているのだろうかと思いつつ、初めて室内を見渡した。

そこはキッチンもベッドも机も無い、ひどく殺風景な薄暗い部屋で、真ん中に大きな箱だけがあった。入ってきた扉と向かいあった壁に穿たれたごく小さな窓から差し込む日が、その箱を照らしていた。少年は誘われるようにして箱の傍へと寄った。埃の匂いと薬品の匂いが鼻についた。

その箱はアンティーク調の彫刻が施された古めかしい木箱で、蓋は厚い硝子となっていた。その中で、金色の巻き髪を横たわらせた異国の少女が眠っていた。眉も睫毛も金色に透けて、通った鼻筋や丸みを帯びた頬、肉感的な唇に艶さえ宿っている。少年はしばらくの間、その美しさに見入った。

 一目見たとき、直感的に、彼女は生きていないということはなんとなく分かった。だが、少しも恐ろしさはなかった。かえって不思議な愛着が湧いた。どこかで会ったことのあるような、前世で愛しい存在にあったような、不思議で懐かしく愛おしい気持ちが少年の胸を締め付けた。彼女の空白に、少年の思いは際限なく、容易く吸い込まれた。

 傾いた西陽の強さが増し、その陽が硝子の蓋に反射して、少年の目を刺した。まだこんな時間だったのかと思いながら景色を眺めようと窓に近寄った少年は、その目に飛び込んできた景色に体を固まらせた。まず、高さが思いの外低かったことにも驚きだが、それ以外の全てが少年の予想と違っていた。

 それは、茶色い街だった。レンガ造りの家々が立ち並び、白く大仰な建物に十字架が刺さっている。急いで固い窓を開けて下を見てみると、狭い道を馬車や人が忙しなく行き来し、どこからか聴いたことのないメロディーを奏でるアコーディオンの音が聴こえてくる。街全体が埃っぽく煙っているが、雑多で陽気な空気が伝わってくる。恐ろしさもあるが、少年の好奇心は優にそれを上回った。これは降りてみるしかないと、興奮に体を震わせながら部屋を飛び出した少年の眼前に広がったのは、巨大な白い壁のような団地だった。かつ、彼が立っているのも、同じ造りの建物の最上階であった。辺りは真っ暗で、天井に等間隔に付けられた蛍光灯が廊下を青白く照らしていた。はっとして振り返ると、そこには二つの向かい合った扉しかなく、少年が今しがた飛び出してきた場所には真っ白な壁だけがあった。