青夏(せいか)のみぎり(3)

「悪い」

守は気まずそうに引き攣らせた薄い笑顔を見せると、再びドアを閉めて何処かへ行ってしまった。

「ち、違うんだって……!」

弁解の言葉は鉄製のドアにぶつかり、虚しく床へと転がった。

「痛い」

千一(ゆきひ)は自分のすぐ下から静かに発せられた声に視線を向けると、ソファーに広がった長い髪に手で体重をかけてしまっていたことに気付いた。手を離し、次に体を離した。

「ごめん」

奈津美は自由になった体を起き上がらせると、白けた顔をして手櫛で髪を整えた。そもそもあんな体勢になってしまったのは奈津美のせいなので自分が謝るのも変だと千一は思ったが、それに対する苛立ちよりも混乱の方が大きかった。というより、苛立ちと戸惑いの区別がうまくつかず、ただ混乱しているといった方が的確である。

「……どうしてこんなことしたんだよ」

「嫌だった?」

「そりゃ、突然引っ張られて、あんなところ人に見られたら、誰だって困るだろう」

「勘違いされるから?」

「それは」

「守さんに勘違いされるのが嫌なんでしょう?」

奈津美は嫌味を言うように語気を強めた。

千一は何と言えばお互いが一番傷つかずに済むのかが分からず、深くため息を吐いた。

「何よその被害者面。本当にむかつく。今まで散々私を傷つけてきた癖に」

自分は相手を傷つけまいと配慮していたにも関わらず、相手から返ってきた言葉があまりに予想外なものだったので、千一にしては珍しく感情を露わにした。

「俺、お前に何かしたかよ!」

奈津美はきっと千一を睨みつけると、荷物を持って部屋を飛び出して行った。ドアを出ていく瞬間、横顔の頬に、廊下の灯りを反射して光り流れる一筋が目に入った。それを見て、千一はやっと彼女の怒りの意味を理解した。

整理のつかない感情が、言葉になれずに嫌な音となって一人きりの薄暗い部屋の中で何度も何度も反響した。

試験が終わり、千一は不安の残る達成感と喪失感をおぼえながら夏季休暇を迎えることとなった。

あの日以来、千一と奈津美はろくに顔を合わせてもいない。共通の友人たちからは当然事情を聞かれたが、喧嘩をした、くらいしか言い逃れる術が思いつかなかった。

外へ出ると、鋭い日差しが照りつけ、思わず目を瞑った。額に手を当てて目を刺す日差しを遮りながら歩いていると、校門の傍でこちらに向かって手を上げて合図をしている人物が目に入った。雰囲気からして明らかに学生ではないその人物が誰なのか千一はすぐに分かったが、知らぬふりをして通り過ぎようとして、背負っていたリュックの上部の持ち手部分を掴まれた。千一は危うくリュックが脱げそうになるのをなんとか肘のところで留めた。

「大好きな伯父さんが視界に入らないほど試験の出来が悪かったのかな」

「……何しにきた」

「鍵を渡しに行くと約束しただろう」

「家のポストにでも入れておけばいいだろう。わざわざ学校まで来るなよ。完全に変質者だよあんた」

「大丈夫、保護者だから」

「何が保護者だよ、真逆の人間だろう」

千一は手を差し出した。

「何だ、小遣いせびりか」

「違う。早く鍵を寄こして帰れと言っている」

「久々に会ったのにそんな寂しいこと言うなよ。茶くらい付き合え」

大学の近所の喫茶店へ入ると、敦史は珈琲を、千一は昼食がまだだったので珈琲とサンドウィッチを頼んだ。敦史は出てきた珈琲に少量ずつミルクと砂糖を入れて飲んだ。

「何か嫌なことがあっただろう」

敦史はにやりとしながら言った。千一は内心ぎくりとしたが平静を装った。

「試験だったからな」

「いや、それ以外にだ」

「……何故そう思う」

「顔を見ていればわかる」

トイレへ行ってくると言い、敦史は席を立った。その隙に、千一はこっそりと窓硝子に映った自分の顔を見た。外側がグリーンカーテンで覆われているため、鏡のような役割を果たす。確かに試験勉強による睡眠不足で多少眠たそうには見えるが、自分自身ではそれほどまでの変化は感じ取れなかった。

しかしやはり、心当たりはあった。奈津美とのことだ。そのことがあったのでぎくりとしたのだ。だが、敦史が奈津美を知っているはずもないので、何故言い当てたのかが千一は不思議だった。

そんなことを寝不足の頭でぼんやりと考えながら、千一は珈琲とサンドウィッチを口にしていた。なかなか敦史が戻ってこない。腕時計に目をやると、十分が経っていた。やられた、と思いながら千一は自棄気味に残りの昼食を口へ放り込み、席を立とうとすると、敦史が座っていたソファーの隅に茶封筒があるのを見付けた。封筒越しに触れた感触で、鍵が入っていることが分かった。千一はそれをズボンのポケットへつっこんだ。

そして、淳史に対して苛立ちを覚えながら会計を済ませようとしたところ、

「もうお済です」

と店員に告げられた。意外な出来事に驚きながら再び店員に確認したが、やはり返答は同じだった。千一は敦史を疑った自分が恥ずかしくなった。

千一は帰りの電車の中で封筒の中身を確認した。見覚えのない鍵と、折りたたまれた紙が入っていた。表には「滄溟月亭」(そうめいげつてい)と記されている。淳史が名付けた名だろうと千一はすぐに察しがついた。あの荒んだ人格を持つ伯父は意外にも花が好きで、特に梅の花が好きなのだ。千一はかつて、彼の好きな梅の種類で「滄溟の月」というものがあるということを聞かされたことがあった。

開いてみると、手描きの地図が描かれていた。例の家は、どうやら梅沢という駅から近い処にあるらしい。「父親の実家の方」と告げられていたが、同じ県内にあるというだけで、祖父の家からは電車で一時間半ほどかかる場所だった。滞在中の食事を祖父母の家で済ませるという千一の計画は立ち消えを余儀なくされた。

 

梅沢駅を降りて、真夏であるにも関わらず妙に冷たい風の吹きぬける林の中を歩いて辿り着いた家は、くすんだ青の塗装が印象的な古い洋風の家だった。千一はこの色を見て、何故淳史が「滄溟月亭」と名付けたのか合点がいった。それに付け加えて、ムーミンの家に似ているな、などと呑気なことを千一は思った。それくらい可愛らしい印象を受ける家だが、およそ一年前に人が自殺した家なのである。それを思い出し、千一は冷や汗をかきながら鍵を開けた。扉を開けると、白を基調とした吹き抜けの玄関だった。チューリップを逆さにしたような、乳白色のペンダントライトが三つ長さを違えてぶら下がっている。

まだ昼間だが、電気が通っていることの確認として千一は家中の灯りを付けていった。淳史が一時的に泊っていたのか、一人で暮らすに事足りる家具や家電は揃えられていた。

千一は荷物を二階の寝室へ置くと、財布と鍵だけを持って買い出しへ行った。駅の傍に神社があり、その神社の前を少し行くと、スーパーやドラッグストアなどがあると淳史が描いた地図に記されていた。そこで食料と日用品を買い揃え、千一が滄溟月亭へと戻ると、玄関に男物のコルクサンダルと女物ウェッジソールサンダルが並んでいた。奥からは聞き覚えのあるクラシックが聞こえてくる。真昼の微睡みの様な、穏やかで美しいピアノの旋律。嫌な予感がした。玄関に買って来たものを置いたまま、千一はリビングへと足を歩めた。目に入ったのは、ソファーへ腰掛けた男女の後ろ姿。片方は、見知らぬ女性。もう片方の人物は、その女性へ笑いかける横顔で分かった。千一の顔から血の気が引いていく。反射的に家を飛び出し、暑さも寒さも感じないまま、林の道を歩いて抜けた。駅へ向ってみたが、買い物袋に財布を入れたままだった。鍵も一緒だ。

千一は、行く手を阻むような入道雲からしばらく目が離せなかった。