幻にあらず

今朝、祖父が死んだ。

まるで眠っているだけのような顔をして死んでいた。

触れてみたその肌は、もっと温かくてもよさそうな感触だったが、およそ体温とよべる熱は存在しなかった。

中学二年の後半から学校へ通えなくなってしまった僕は、三年に上がった二ヵ月前に親元を離れてこの田舎の祖父の家へとやってきた。祖母は僕が生まれる前に他界していたので写真でしかその顔を見たことはない。温厚だが頑固なところのある祖父は、誰の世話にもなる気はないと言ってずっと寂しく一人暮らしをしていたので、僕がやってきたときには大変喜んだ。

祖父と孫という関係ではあってもあまり会ったことはなかったので、最初はお互いに遠慮というものがあったが、次第にそれも薄れていった。それでも元々温厚な性格である祖父とは、一緒にいて楽だった。

しかし、ひとつ難点があった。

僕が祖父の家へやってきてから一週間が経った頃、祖父が酒を飲み始めたのだ。おそらくその一週間は僕に遠慮をして飲むのを控えていたのだろう。しかし飲むだけならばいいのだが、問題なのは、彼が飲みながら一人で延々にぶつぶつと文句を言うことだった。それは、僕が近くにいてもお構いなしだった。しかし、そういう癖があることを僕は誰からも聞いたことはなかったので、それは彼が独りきりになってから身につけてしまった癖なのだろうと思われた。直接僕に対して文句を言ってくるわけでも暴れるわけでもないので特に危害があるわけではないが、耳に入ってくるだけで気が滅入った。

二ヵ月の間、毎晩欠かさずそんなことを続けられてうんざりした僕は、そんなことをしているくらいなら、早く眠ってしまえと心底思った。

今朝起きると、妙な静けさが気にかかった。普段ならば僕よりも先に起きている祖父が居間でテレビを観ているはずなのだが、その音がしなかった。誰もいない居間へ行った後、気になって祖父の部屋へ行ったところ、彼は布団の中で眠っていた。しかし、そこには何か違和感があった。その違和感の正体を探ろうと祖父をじっと見つめていると、その正体は徐々に明らかとなった。少しも寝息が聞こえず、胸も上下していないのだ。手首に触れてみても、指先に感じるはずの抵抗は何もなかった。彼は亡くなっていたのだ。

急に、昨夜自分が思ったことが思い起こされた。そのせいで彼を深い深い眠りに就かせてしまったのではないかという観念が僕の頭中に張り付いた。

葬儀は故人となった祖父宅で行われた。死因は心筋梗塞だと知らされた。眠っているようにしか見えないくらいきれいな状態だったのはそのせいらしかったが、他の死因による遺体のひどさを目にしたことのない僕にとっては、何の助けにもならないことだった。

駆けつけて来た母や親戚たちは僕を心配する同時に、「おじいちゃんは最後に薫と暮らせてよかったね」と労わった。

葬儀の終盤頃から降り出した雨も、その後の会食中には上がった。僕はそれを見計らって家を抜け出して近所の公園へ行った。あの家にいると、誰かから責められるような気がしてならなかったからだ。

すっかり暗くなったこの時間の公園内には人影はひとつも見当たらなかったが、その方がかえって心地よかった。この公園は今ちょうど見頃を迎えている花菖蒲が有名で、夜なので何も見えないかと思ったが、今日は満月なので煌々と照らされる紫色の花の姿が美しく目に映えた。

すると、その中に、花が倒れ込んで窪んでいる箇所を見付けた。妙に気になって、僕は菖蒲畑へと入った。いかにも濃厚な匂いを放ちそうな外見をした花は意外にも匂いを持たず、ただ感じるのは泥の匂いだけだった。僕は泥が靴の中に侵入してくるのも構わず、その窪みへと近づいた。まず、裸足の足が見えて、すぐに人が倒れているのだと理解した。

そこに倒れていたのは僕と同じ年くらいの少年で、異様な肌の白さが印象的だった。もちろん、その異様さがどこからきているのかも、僕にはなんとなく分かっていた。

泥の染みた白いシャツ越しの胸に耳を当てた。案の定、何の音もしない。白く細い腕は、あの時触れた祖父の腕とは違い、「温度がない」というより「冷たい」と言った方が正確だった。泥水に体温を奪われたのだろう。そんなことよりも、僕はその肌の白くきめ細やかな様が気になった。まるで陶器のような無機質的な美しさで、温かいよりはこのように冷たい方が合っているように思われた。

彼の腕についた水っぽい泥を、そのきめ細やかな白い肌に指を滑らせて伸ばした。

水気の多い部分は弾かれて腕の丸みに沿って落ちてゆき、泥の濃い部分は線となって白い肌を汚した。

僕がうっとりとその様子を眺めていると、死んでいると思い込んでいた少年が急に起き上がった。驚いて動くことすらできなかった僕を、少年は口元に笑みを浮かべて見詰めると、すんなりと立ち上がって僕の横を通って去って行った。

すれ違いざま、耳元でこう囁かれた。

「ひとごろし」

ぞっとして振り向くと、ぺったりとした満月が見下ろしていた。