青夏(せいか)のみぎり(2)
「ユキ君」
杉崎は周囲の視線など意に介さないといった様子で、千一に向かって手を振った。視線は一気に千一に集まり、次に二人の間を行き来した。容姿を比べられているのが直感で分かる。千一は慌てて鞄に荷物を突っ込み、視線から逃れるようにして杉崎の元へと駆け寄った。
「何の用ですか。それに、何なんですかその呼び方」
「いいじゃない、そんなに怒らないでよ。これから少しお世話になる予定だから、ご挨拶しておこうと思って来たの」
「何の話ですか」
千一にはまるで見当がつかなかった。予想している間にも、視線があちこちから刺さってくる。
「兎に角、場所を移しましょう」
千一が先立って学生食堂へと入り、二人掛けの席に座った。
「改めまして、守さんと同じ研究室の杉崎叶子と申します」
「どうも……ところで、要件というのは」
「お二人がお部屋を留守にしている間、私が留守番をすることになったので、少しは気が知れておいた方がユキ君にも安心してもらえると思って」
「留守って?」
あまりに唐突な内容に、妙な呼び方を指摘する余裕もなかった。
「夏季休暇の間、守君は学部時代のキャンパス近くの病院で研修があるからしばらく伯父さまの家に泊って、その間、ユキ君はお父様の地元にある別荘に住むと聞いたのだけれど」
“伯父さま”というのは千一の父親のことだ。千一は守の研修の件は聞いていたが、後者に関しては初耳だった。千一としては、東京の部屋と実家を行き来するつもりでいた。腑に落ちない様子の千一を見て、叶子は怪訝な顔をした。
「守君から聞いていなかったの?」
「聞いていません。それに、うちに別荘なんてあった覚えはありませんが」
「それは私に訊かれても困るわ。守君に直接訊いてちょうだいね。とりあえず、そういうことだからよろしく」
叶子は例の如くヒールをカツカツと鳴らしながら去って行った。
守が帰宅するなり、千一は彼へと詰め寄った。
「夏季休暇の間、俺が別荘に住むってどういうことだよ。ていうか、別荘なんてうちみたいな一般庶民が持っているわけないだろう。どうしてそんな嘘を吐く必要があるんだ」
守は興奮気味の千一をまあまあと宥めると、
「誰から聞いたんだ」
「杉崎って人から」
守は困ったように右手で頭を抱えると、溜息を吐いて千一に向き直った。
「驚かせたのは謝る。そろそろ伝えようとは思っていたんだ」
守が言うには、千一の父親と守の父親の弟、つまり、二人の伯父にあたる敦史が、一軒家とそれに伴う土地を、ある人物から安価で買い取ったのだという。しかし、甘い話には必ず裏があるものだ。さっそく伯父がその家を賃貸に出そうと、不動産屋を通して入居者を募ったのだが、なかなか契約が決まらない。それもそのはず、その物件は事故物件だったのだ。一年前に、その家で一人暮らしをしていた人物が風呂場で自殺したのだという。現場を想像するだけでツンとくる生臭い匂いが鼻をつく。内覧に来た応募者たちはその匂いを嗅ぎ取ったのか、それとも業者を使って調べたのかは知らないが、結果、住むには何かしらの抵抗を感じたのだろう。
その物件が事故物件だということを知らなかった伯父は、その家と土地を売り付けてきた人物に騙されたということになる。しかし、「人が死んだことがある」くらいならば全く意に介さない人物である伯父は、事故物件の告知義務について調べ、それを潜り抜ける術を見付けたというのである。
「自殺の場合、一度誰かが住めば告知義務はなくなるらしいんだ」
「その誰かに、俺がなれと?軽んじるにも程がある。どうして提案されたとき、守さんから断わってくれなかったんだ」
「ごめん。敦史さんは、ああいう人だからさ……」
千一にも概ね想像はついた。守も彼に何か弱味を握られているのだろう。それは、千一も例外ではなかった。伯父はそういう人間だ。
彼は千一や守の父親たちとはたいぶ年が離れており、まだ三十半ばと若い。顔立ちがよく人当たりの良いことから周囲からは好感を持たれやすいが、外で良い顔をする一方、身内はできるだけ利用してやろうという曲がった根性の持ち主で、親族は度々迷惑をかけられた。
「……まあ、しょうがないけど。俺、一人でそんな家に住むなんて嫌だよ」
「俺もちょくちょく顔を出せると思うから、辛抱してくれ。どうしても嫌だったら敦史さんに直接抗議してくれ。そろそろ連絡を寄こしてくると思うから」
夜になってから、何故留守番を杉崎に頼んだのかを問い詰め忘れたことに千一は気付いたが、守は既に眠ってしまっていたのでそれは後日訊くことにした。
風呂から上がると、千一は冷凍庫からアイスキャンディーを一つ取り出して、ベランダへ出た。夜風とアイスキャンディーが火照った体を落ち着かせた。
この時間になるとビルの灯りもほとんど消えていて、屋上で点滅している航空障害灯が目立った。遠くには赤く光るタワーも見える。千一はもう慣れてしまったが、友人や母たちには部屋から赤いタワーが見えることを羨ましがられた。
不意に、部屋着用のハーフパンツのポケットの中で携帯電話が震えた。知らない番号からだった。
「もしもし」
千一は恐るおそる出た。
「おう、ユキ子。元気か」
「敦史さん?また携帯替えたの。ていうか子を付けるのはやめろよ」
「いや、新しく作ったんだ。それより、話は聞いたか」
「……聞いたけど」
「よかったな~別荘だぞ」
「よくないよ。しかも別荘じゃないし。いい歳して人を巻き込みやがって」
「冷たいなあ。俺は人に騙されたんだぞ。少しくらい助けてくれよ」
「嫌だね。自業自得だろう。あんたがそんなだから騙されるんだ。類は友を呼ぶっていうからな」
「そうか。残念だなあ。ユキが引き受けてくれないなら、お前の父さんか母さんにお願いするしかないなあ」
「どうしてそうなるんだよ」
千一は携帯を握る力と声を強めた。千一の両親も、敦史には何かと迷惑をかけられてきた。しかし、普段は優しくされているからか、彼らは敦史に利用されているというより世話を焼いてやっているという認識らしく、彼の悪意には気付いていないようなので、千一は両親と敦史をなるべく引き合わせたくなかった。しかし、他を当たれと言っても何かしらの形で必ず千一が痛手を負うように手を回すことは目に見えている。ならば、分かりやすい形でそれを引き受ける方がまだましだと千一は考えた。
「……分かったよ。」
「さすが俺の甥だな、物分かりがいい」
「その代わり、父さんと母さんにはしばらく会うなよ」
「はいはい。じゃあ、今度鍵を渡しに行くから。よろしく頼むよ」
電話はそこで一方的に切られた。
せっかく涼んだにも関わらず、先ほどの電話で頭に血が上ってすっかり体が熱くなってしまった千一は、冷凍庫からもう一本アイスキャンディーを取り出して自棄になって齧り付いた。
夏季休暇まで、あと一週間と少しだ。
今週の終りから試験が始まる。千一にとって、大学に入ってから初めての試験になるので、いくらか不安があった。初めてのちゃんとしたレポート提出もいくつかある。学生たちのほとんどはそれほどやる気がなさそうに見えたが、図書室へ行けば、自習机で熱心に勉強をしている学生もたくさんいた。
「そうだ、この間貸した本、返してよ。レポートに使いたいから」
隣で帰り支度をしていた奈津美が言った。
「ごめん、家にある」
「じゃあこれからユキん家に寄って受取ってもいい」
「いいよ」
部屋へ上がると、千一は客用のスリッパを取り出して奈津美へすすめた。奈津美はそれを履くと、遠慮もせずに中へと上がり込んだ。
「相変わらず綺麗にしているのね。女でもいるの」
「いないよ」
「ユキにはいなくても、守さんにはいるんじゃない」
瞬時に頭の中に杉崎の顔が浮かんだが、千一は必至にそれを打ち消した。
「それは知らないけど、ここへ来たことはないよ」
「千一がいない間に連れ込んでいるんじゃない」
そう言いながら、奈津美はベランダへ出た。汗ばんだ首に髪が張り付くのが鬱陶しいらしく、彼女は左手を首の後ろへ回して、セミロングの豊かな髪を左肩へ流した。片方の肩へ髪を纏めるのは、長い髪を持つ女性の癖なのだろうかと千一は思った。
千一は奈津美がベランダで涼んでいる間に、自分の部屋へ行って本を探した。すぐに手に取れる場所へ置いていたつもりが、うっかり自分の本棚へと仕舞いこんでしまっていた。リビングへ戻ると、奈津美はソファーに座って携帯をいじっていた。千一が借りていた本を彼女へ差し出そうとしたとき、玄関の鍵穴へ鍵を差し込む音がした。
「お、帰って来た」
千一がそう言った瞬間、勢いよくTシャツの襟を引っ張られた。バランスを崩した千一はソファーへと倒れ込んだ。咄嗟に手をついたものの、目の前には奈津美の顔があった。汗と香水の匂いが混ざって、甘酸っぱい香りがむっと迫り、気の遠くなるような思いがした。千一が混乱している間にも玄関のドアが開き、そちらを向くと、帰ってきた守と目が合った。