京都追想録・いち

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堂本印象の「ぶどうとレモン」。一目惚れした作品のひとつです。色遣いがめちゃくちゃ可愛いです。
龍安寺へ行った際にどこか美術館へも行きたいという話になり、近場で無料公開をしている美術館を探してみたら、すぐ近くで「堂本印象美術館」なるものが無料公開をしていると知って足を運びました。
龍安寺から堂本印象美術館へは、衣笠山の麓を抜ける形で「きぬかけの路」を進めばすぐなのですが、そのきぬかけの路がまた緑豊かで静かな素敵な路でした。
それまで堂本印象について全く無知だったのでそれほど期待をしていなかったのですが、予想以上に良かったです。彼の作品はとても緻密なものから抽象的な心象風景のようなものまで様々なものがありました。晩年の作品になるに連れて色遣いが可愛く派手になっていくのがとても印象に残っています。作品を見て、とても可愛い人だったのだろうなと勝手に思いました。笑

青夏(せいか)のみぎり(3)

「悪い」

守は気まずそうに引き攣らせた薄い笑顔を見せると、再びドアを閉めて何処かへ行ってしまった。

「ち、違うんだって……!」

弁解の言葉は鉄製のドアにぶつかり、虚しく床へと転がった。

「痛い」

千一(ゆきひ)は自分のすぐ下から静かに発せられた声に視線を向けると、ソファーに広がった長い髪に手で体重をかけてしまっていたことに気付いた。手を離し、次に体を離した。

「ごめん」

奈津美は自由になった体を起き上がらせると、白けた顔をして手櫛で髪を整えた。そもそもあんな体勢になってしまったのは奈津美のせいなので自分が謝るのも変だと千一は思ったが、それに対する苛立ちよりも混乱の方が大きかった。というより、苛立ちと戸惑いの区別がうまくつかず、ただ混乱しているといった方が的確である。

「……どうしてこんなことしたんだよ」

「嫌だった?」

「そりゃ、突然引っ張られて、あんなところ人に見られたら、誰だって困るだろう」

「勘違いされるから?」

「それは」

「守さんに勘違いされるのが嫌なんでしょう?」

奈津美は嫌味を言うように語気を強めた。

千一は何と言えばお互いが一番傷つかずに済むのかが分からず、深くため息を吐いた。

「何よその被害者面。本当にむかつく。今まで散々私を傷つけてきた癖に」

自分は相手を傷つけまいと配慮していたにも関わらず、相手から返ってきた言葉があまりに予想外なものだったので、千一にしては珍しく感情を露わにした。

「俺、お前に何かしたかよ!」

奈津美はきっと千一を睨みつけると、荷物を持って部屋を飛び出して行った。ドアを出ていく瞬間、横顔の頬に、廊下の灯りを反射して光り流れる一筋が目に入った。それを見て、千一はやっと彼女の怒りの意味を理解した。

整理のつかない感情が、言葉になれずに嫌な音となって一人きりの薄暗い部屋の中で何度も何度も反響した。

試験が終わり、千一は不安の残る達成感と喪失感をおぼえながら夏季休暇を迎えることとなった。

あの日以来、千一と奈津美はろくに顔を合わせてもいない。共通の友人たちからは当然事情を聞かれたが、喧嘩をした、くらいしか言い逃れる術が思いつかなかった。

外へ出ると、鋭い日差しが照りつけ、思わず目を瞑った。額に手を当てて目を刺す日差しを遮りながら歩いていると、校門の傍でこちらに向かって手を上げて合図をしている人物が目に入った。雰囲気からして明らかに学生ではないその人物が誰なのか千一はすぐに分かったが、知らぬふりをして通り過ぎようとして、背負っていたリュックの上部の持ち手部分を掴まれた。千一は危うくリュックが脱げそうになるのをなんとか肘のところで留めた。

「大好きな伯父さんが視界に入らないほど試験の出来が悪かったのかな」

「……何しにきた」

「鍵を渡しに行くと約束しただろう」

「家のポストにでも入れておけばいいだろう。わざわざ学校まで来るなよ。完全に変質者だよあんた」

「大丈夫、保護者だから」

「何が保護者だよ、真逆の人間だろう」

千一は手を差し出した。

「何だ、小遣いせびりか」

「違う。早く鍵を寄こして帰れと言っている」

「久々に会ったのにそんな寂しいこと言うなよ。茶くらい付き合え」

大学の近所の喫茶店へ入ると、敦史は珈琲を、千一は昼食がまだだったので珈琲とサンドウィッチを頼んだ。敦史は出てきた珈琲に少量ずつミルクと砂糖を入れて飲んだ。

「何か嫌なことがあっただろう」

敦史はにやりとしながら言った。千一は内心ぎくりとしたが平静を装った。

「試験だったからな」

「いや、それ以外にだ」

「……何故そう思う」

「顔を見ていればわかる」

トイレへ行ってくると言い、敦史は席を立った。その隙に、千一はこっそりと窓硝子に映った自分の顔を見た。外側がグリーンカーテンで覆われているため、鏡のような役割を果たす。確かに試験勉強による睡眠不足で多少眠たそうには見えるが、自分自身ではそれほどまでの変化は感じ取れなかった。

しかしやはり、心当たりはあった。奈津美とのことだ。そのことがあったのでぎくりとしたのだ。だが、敦史が奈津美を知っているはずもないので、何故言い当てたのかが千一は不思議だった。

そんなことを寝不足の頭でぼんやりと考えながら、千一は珈琲とサンドウィッチを口にしていた。なかなか敦史が戻ってこない。腕時計に目をやると、十分が経っていた。やられた、と思いながら千一は自棄気味に残りの昼食を口へ放り込み、席を立とうとすると、敦史が座っていたソファーの隅に茶封筒があるのを見付けた。封筒越しに触れた感触で、鍵が入っていることが分かった。千一はそれをズボンのポケットへつっこんだ。

そして、淳史に対して苛立ちを覚えながら会計を済ませようとしたところ、

「もうお済です」

と店員に告げられた。意外な出来事に驚きながら再び店員に確認したが、やはり返答は同じだった。千一は敦史を疑った自分が恥ずかしくなった。

千一は帰りの電車の中で封筒の中身を確認した。見覚えのない鍵と、折りたたまれた紙が入っていた。表には「滄溟月亭」(そうめいげつてい)と記されている。淳史が名付けた名だろうと千一はすぐに察しがついた。あの荒んだ人格を持つ伯父は意外にも花が好きで、特に梅の花が好きなのだ。千一はかつて、彼の好きな梅の種類で「滄溟の月」というものがあるということを聞かされたことがあった。

開いてみると、手描きの地図が描かれていた。例の家は、どうやら梅沢という駅から近い処にあるらしい。「父親の実家の方」と告げられていたが、同じ県内にあるというだけで、祖父の家からは電車で一時間半ほどかかる場所だった。滞在中の食事を祖父母の家で済ませるという千一の計画は立ち消えを余儀なくされた。

 

梅沢駅を降りて、真夏であるにも関わらず妙に冷たい風の吹きぬける林の中を歩いて辿り着いた家は、くすんだ青の塗装が印象的な古い洋風の家だった。千一はこの色を見て、何故淳史が「滄溟月亭」と名付けたのか合点がいった。それに付け加えて、ムーミンの家に似ているな、などと呑気なことを千一は思った。それくらい可愛らしい印象を受ける家だが、およそ一年前に人が自殺した家なのである。それを思い出し、千一は冷や汗をかきながら鍵を開けた。扉を開けると、白を基調とした吹き抜けの玄関だった。チューリップを逆さにしたような、乳白色のペンダントライトが三つ長さを違えてぶら下がっている。

まだ昼間だが、電気が通っていることの確認として千一は家中の灯りを付けていった。淳史が一時的に泊っていたのか、一人で暮らすに事足りる家具や家電は揃えられていた。

千一は荷物を二階の寝室へ置くと、財布と鍵だけを持って買い出しへ行った。駅の傍に神社があり、その神社の前を少し行くと、スーパーやドラッグストアなどがあると淳史が描いた地図に記されていた。そこで食料と日用品を買い揃え、千一が滄溟月亭へと戻ると、玄関に男物のコルクサンダルと女物ウェッジソールサンダルが並んでいた。奥からは聞き覚えのあるクラシックが聞こえてくる。真昼の微睡みの様な、穏やかで美しいピアノの旋律。嫌な予感がした。玄関に買って来たものを置いたまま、千一はリビングへと足を歩めた。目に入ったのは、ソファーへ腰掛けた男女の後ろ姿。片方は、見知らぬ女性。もう片方の人物は、その女性へ笑いかける横顔で分かった。千一の顔から血の気が引いていく。反射的に家を飛び出し、暑さも寒さも感じないまま、林の道を歩いて抜けた。駅へ向ってみたが、買い物袋に財布を入れたままだった。鍵も一緒だ。

千一は、行く手を阻むような入道雲からしばらく目が離せなかった。

幻にあらず

今朝、祖父が死んだ。

まるで眠っているだけのような顔をして死んでいた。

触れてみたその肌は、もっと温かくてもよさそうな感触だったが、およそ体温とよべる熱は存在しなかった。

中学二年の後半から学校へ通えなくなってしまった僕は、三年に上がった二ヵ月前に親元を離れてこの田舎の祖父の家へとやってきた。祖母は僕が生まれる前に他界していたので写真でしかその顔を見たことはない。温厚だが頑固なところのある祖父は、誰の世話にもなる気はないと言ってずっと寂しく一人暮らしをしていたので、僕がやってきたときには大変喜んだ。

祖父と孫という関係ではあってもあまり会ったことはなかったので、最初はお互いに遠慮というものがあったが、次第にそれも薄れていった。それでも元々温厚な性格である祖父とは、一緒にいて楽だった。

しかし、ひとつ難点があった。

僕が祖父の家へやってきてから一週間が経った頃、祖父が酒を飲み始めたのだ。おそらくその一週間は僕に遠慮をして飲むのを控えていたのだろう。しかし飲むだけならばいいのだが、問題なのは、彼が飲みながら一人で延々にぶつぶつと文句を言うことだった。それは、僕が近くにいてもお構いなしだった。しかし、そういう癖があることを僕は誰からも聞いたことはなかったので、それは彼が独りきりになってから身につけてしまった癖なのだろうと思われた。直接僕に対して文句を言ってくるわけでも暴れるわけでもないので特に危害があるわけではないが、耳に入ってくるだけで気が滅入った。

二ヵ月の間、毎晩欠かさずそんなことを続けられてうんざりした僕は、そんなことをしているくらいなら、早く眠ってしまえと心底思った。

今朝起きると、妙な静けさが気にかかった。普段ならば僕よりも先に起きている祖父が居間でテレビを観ているはずなのだが、その音がしなかった。誰もいない居間へ行った後、気になって祖父の部屋へ行ったところ、彼は布団の中で眠っていた。しかし、そこには何か違和感があった。その違和感の正体を探ろうと祖父をじっと見つめていると、その正体は徐々に明らかとなった。少しも寝息が聞こえず、胸も上下していないのだ。手首に触れてみても、指先に感じるはずの抵抗は何もなかった。彼は亡くなっていたのだ。

急に、昨夜自分が思ったことが思い起こされた。そのせいで彼を深い深い眠りに就かせてしまったのではないかという観念が僕の頭中に張り付いた。

葬儀は故人となった祖父宅で行われた。死因は心筋梗塞だと知らされた。眠っているようにしか見えないくらいきれいな状態だったのはそのせいらしかったが、他の死因による遺体のひどさを目にしたことのない僕にとっては、何の助けにもならないことだった。

駆けつけて来た母や親戚たちは僕を心配する同時に、「おじいちゃんは最後に薫と暮らせてよかったね」と労わった。

葬儀の終盤頃から降り出した雨も、その後の会食中には上がった。僕はそれを見計らって家を抜け出して近所の公園へ行った。あの家にいると、誰かから責められるような気がしてならなかったからだ。

すっかり暗くなったこの時間の公園内には人影はひとつも見当たらなかったが、その方がかえって心地よかった。この公園は今ちょうど見頃を迎えている花菖蒲が有名で、夜なので何も見えないかと思ったが、今日は満月なので煌々と照らされる紫色の花の姿が美しく目に映えた。

すると、その中に、花が倒れ込んで窪んでいる箇所を見付けた。妙に気になって、僕は菖蒲畑へと入った。いかにも濃厚な匂いを放ちそうな外見をした花は意外にも匂いを持たず、ただ感じるのは泥の匂いだけだった。僕は泥が靴の中に侵入してくるのも構わず、その窪みへと近づいた。まず、裸足の足が見えて、すぐに人が倒れているのだと理解した。

そこに倒れていたのは僕と同じ年くらいの少年で、異様な肌の白さが印象的だった。もちろん、その異様さがどこからきているのかも、僕にはなんとなく分かっていた。

泥の染みた白いシャツ越しの胸に耳を当てた。案の定、何の音もしない。白く細い腕は、あの時触れた祖父の腕とは違い、「温度がない」というより「冷たい」と言った方が正確だった。泥水に体温を奪われたのだろう。そんなことよりも、僕はその肌の白くきめ細やかな様が気になった。まるで陶器のような無機質的な美しさで、温かいよりはこのように冷たい方が合っているように思われた。

彼の腕についた水っぽい泥を、そのきめ細やかな白い肌に指を滑らせて伸ばした。

水気の多い部分は弾かれて腕の丸みに沿って落ちてゆき、泥の濃い部分は線となって白い肌を汚した。

僕がうっとりとその様子を眺めていると、死んでいると思い込んでいた少年が急に起き上がった。驚いて動くことすらできなかった僕を、少年は口元に笑みを浮かべて見詰めると、すんなりと立ち上がって僕の横を通って去って行った。

すれ違いざま、耳元でこう囁かれた。

「ひとごろし」

ぞっとして振り向くと、ぺったりとした満月が見下ろしていた。

青夏(せいか)のみぎり(2)

「ユキ君」

杉崎は周囲の視線など意に介さないといった様子で、千一に向かって手を振った。視線は一気に千一に集まり、次に二人の間を行き来した。容姿を比べられているのが直感で分かる。千一は慌てて鞄に荷物を突っ込み、視線から逃れるようにして杉崎の元へと駆け寄った。

「何の用ですか。それに、何なんですかその呼び方」

「いいじゃない、そんなに怒らないでよ。これから少しお世話になる予定だから、ご挨拶しておこうと思って来たの」

「何の話ですか」

千一にはまるで見当がつかなかった。予想している間にも、視線があちこちから刺さってくる。

「兎に角、場所を移しましょう」

千一が先立って学生食堂へと入り、二人掛けの席に座った。

 

「改めまして、守さんと同じ研究室の杉崎叶子と申します」

「どうも……ところで、要件というのは」

「お二人がお部屋を留守にしている間、私が留守番をすることになったので、少しは気が知れておいた方がユキ君にも安心してもらえると思って」

「留守って?」

あまりに唐突な内容に、妙な呼び方を指摘する余裕もなかった。

「夏季休暇の間、守君は学部時代のキャンパス近くの病院で研修があるからしばらく伯父さまの家に泊って、その間、ユキ君はお父様の地元にある別荘に住むと聞いたのだけれど」

“伯父さま”というのは千一の父親のことだ。千一は守の研修の件は聞いていたが、後者に関しては初耳だった。千一としては、東京の部屋と実家を行き来するつもりでいた。腑に落ちない様子の千一を見て、叶子は怪訝な顔をした。

「守君から聞いていなかったの?」

「聞いていません。それに、うちに別荘なんてあった覚えはありませんが」

「それは私に訊かれても困るわ。守君に直接訊いてちょうだいね。とりあえず、そういうことだからよろしく」

叶子は例の如くヒールをカツカツと鳴らしながら去って行った。

 

守が帰宅するなり、千一は彼へと詰め寄った。

「夏季休暇の間、俺が別荘に住むってどういうことだよ。ていうか、別荘なんてうちみたいな一般庶民が持っているわけないだろう。どうしてそんな嘘を吐く必要があるんだ」

守は興奮気味の千一をまあまあと宥めると、

「誰から聞いたんだ」

「杉崎って人から」

守は困ったように右手で頭を抱えると、溜息を吐いて千一に向き直った。

「驚かせたのは謝る。そろそろ伝えようとは思っていたんだ」

守が言うには、千一の父親と守の父親の弟、つまり、二人の伯父にあたる敦史が、一軒家とそれに伴う土地を、ある人物から安価で買い取ったのだという。しかし、甘い話には必ず裏があるものだ。さっそく伯父がその家を賃貸に出そうと、不動産屋を通して入居者を募ったのだが、なかなか契約が決まらない。それもそのはず、その物件は事故物件だったのだ。一年前に、その家で一人暮らしをしていた人物が風呂場で自殺したのだという。現場を想像するだけでツンとくる生臭い匂いが鼻をつく。内覧に来た応募者たちはその匂いを嗅ぎ取ったのか、それとも業者を使って調べたのかは知らないが、結果、住むには何かしらの抵抗を感じたのだろう。

その物件が事故物件だということを知らなかった伯父は、その家と土地を売り付けてきた人物に騙されたということになる。しかし、「人が死んだことがある」くらいならば全く意に介さない人物である伯父は、事故物件の告知義務について調べ、それを潜り抜ける術を見付けたというのである。

「自殺の場合、一度誰かが住めば告知義務はなくなるらしいんだ」

「その誰かに、俺がなれと?軽んじるにも程がある。どうして提案されたとき、守さんから断わってくれなかったんだ」

「ごめん。敦史さんは、ああいう人だからさ……」

千一にも概ね想像はついた。守も彼に何か弱味を握られているのだろう。それは、千一も例外ではなかった。伯父はそういう人間だ。

彼は千一や守の父親たちとはたいぶ年が離れており、まだ三十半ばと若い。顔立ちがよく人当たりの良いことから周囲からは好感を持たれやすいが、外で良い顔をする一方、身内はできるだけ利用してやろうという曲がった根性の持ち主で、親族は度々迷惑をかけられた。

「……まあ、しょうがないけど。俺、一人でそんな家に住むなんて嫌だよ」

「俺もちょくちょく顔を出せると思うから、辛抱してくれ。どうしても嫌だったら敦史さんに直接抗議してくれ。そろそろ連絡を寄こしてくると思うから」

夜になってから、何故留守番を杉崎に頼んだのかを問い詰め忘れたことに千一は気付いたが、守は既に眠ってしまっていたのでそれは後日訊くことにした。

風呂から上がると、千一は冷凍庫からアイスキャンディーを一つ取り出して、ベランダへ出た。夜風とアイスキャンディーが火照った体を落ち着かせた。

この時間になるとビルの灯りもほとんど消えていて、屋上で点滅している航空障害灯が目立った。遠くには赤く光るタワーも見える。千一はもう慣れてしまったが、友人や母たちには部屋から赤いタワーが見えることを羨ましがられた。

不意に、部屋着用のハーフパンツのポケットの中で携帯電話が震えた。知らない番号からだった。

「もしもし」

千一は恐るおそる出た。

「おう、ユキ子。元気か」

「敦史さん?また携帯替えたの。ていうか子を付けるのはやめろよ」

「いや、新しく作ったんだ。それより、話は聞いたか」

「……聞いたけど」

「よかったな~別荘だぞ」

「よくないよ。しかも別荘じゃないし。いい歳して人を巻き込みやがって」

「冷たいなあ。俺は人に騙されたんだぞ。少しくらい助けてくれよ」

「嫌だね。自業自得だろう。あんたがそんなだから騙されるんだ。類は友を呼ぶっていうからな」

「そうか。残念だなあ。ユキが引き受けてくれないなら、お前の父さんか母さんにお願いするしかないなあ」

「どうしてそうなるんだよ」

千一は携帯を握る力と声を強めた。千一の両親も、敦史には何かと迷惑をかけられてきた。しかし、普段は優しくされているからか、彼らは敦史に利用されているというより世話を焼いてやっているという認識らしく、彼の悪意には気付いていないようなので、千一は両親と敦史をなるべく引き合わせたくなかった。しかし、他を当たれと言っても何かしらの形で必ず千一が痛手を負うように手を回すことは目に見えている。ならば、分かりやすい形でそれを引き受ける方がまだましだと千一は考えた。

「……分かったよ。」

「さすが俺の甥だな、物分かりがいい」

「その代わり、父さんと母さんにはしばらく会うなよ」

「はいはい。じゃあ、今度鍵を渡しに行くから。よろしく頼むよ」

電話はそこで一方的に切られた。

せっかく涼んだにも関わらず、先ほどの電話で頭に血が上ってすっかり体が熱くなってしまった千一は、冷凍庫からもう一本アイスキャンディーを取り出して自棄になって齧り付いた。

夏季休暇まで、あと一週間と少しだ。

 

今週の終りから試験が始まる。千一にとって、大学に入ってから初めての試験になるので、いくらか不安があった。初めてのちゃんとしたレポート提出もいくつかある。学生たちのほとんどはそれほどやる気がなさそうに見えたが、図書室へ行けば、自習机で熱心に勉強をしている学生もたくさんいた。

「そうだ、この間貸した本、返してよ。レポートに使いたいから」

隣で帰り支度をしていた奈津美が言った。

「ごめん、家にある」

「じゃあこれからユキん家に寄って受取ってもいい」

「いいよ」

部屋へ上がると、千一は客用のスリッパを取り出して奈津美へすすめた。奈津美はそれを履くと、遠慮もせずに中へと上がり込んだ。

「相変わらず綺麗にしているのね。女でもいるの」

「いないよ」

「ユキにはいなくても、守さんにはいるんじゃない」

瞬時に頭の中に杉崎の顔が浮かんだが、千一は必至にそれを打ち消した。

「それは知らないけど、ここへ来たことはないよ」

「千一がいない間に連れ込んでいるんじゃない」

そう言いながら、奈津美はベランダへ出た。汗ばんだ首に髪が張り付くのが鬱陶しいらしく、彼女は左手を首の後ろへ回して、セミロングの豊かな髪を左肩へ流した。片方の肩へ髪を纏めるのは、長い髪を持つ女性の癖なのだろうかと千一は思った。

千一は奈津美がベランダで涼んでいる間に、自分の部屋へ行って本を探した。すぐに手に取れる場所へ置いていたつもりが、うっかり自分の本棚へと仕舞いこんでしまっていた。リビングへ戻ると、奈津美はソファーに座って携帯をいじっていた。千一が借りていた本を彼女へ差し出そうとしたとき、玄関の鍵穴へ鍵を差し込む音がした。

「お、帰って来た」

千一がそう言った瞬間、勢いよくTシャツの襟を引っ張られた。バランスを崩した千一はソファーへと倒れ込んだ。咄嗟に手をついたものの、目の前には奈津美の顔があった。汗と香水の匂いが混ざって、甘酸っぱい香りがむっと迫り、気の遠くなるような思いがした。千一が混乱している間にも玄関のドアが開き、そちらを向くと、帰ってきた守と目が合った。