レモンとナイフ(2)

「おかえり」

陸が家へ戻ると、奥から声がかかった。すでに家主が帰ってきているらしい。夕食の準備をしているのか、トントンと包丁の音がする。陸はその音のする台所まで行き、顔を出した。

「ただいま」

「どうしたんだよ、その格好。なんていうか、湿っているな」

「ちょっと、色々あって」

「へえ、色々ねえ」

穂(みのる)は、陸より十四も上の従兄で、両親のいない陸の保護者代わりのようなことをしている。彼は陸の死んだ父親の姉の息子で、父方の従兄弟は皆、男女問わず漢字一文字の名前で統一されていた。それが祖父の趣味なのだ。

「珍しいね、今日は残業なかったんだ」

「少し頭痛がしたから、帰らせてもらった」

「じゃあ休んでいなよ、あとは俺がやるし」

「お前こそ、早く風呂へ入ってこいよ。風邪を引くぞ」

代わろうとして退けられ、気掛かりに思いながら陸が風呂場へ向かうと、すでに湯が立ててあった。本来、夕食の支度も湯を立てるのも陸の仕事なので、申し訳ないような、くすぐったいような思いがして、本来ゆったりと足を伸ばせる湯船に、身を縮こまらせて浸かった。

陸が風呂から上がると、食卓には、春菊のサラダや蓮根の挟み揚げ、栗のおこわなどが並んでいた。普段は料理などしないくせに、仕上がりは見事なものだった。何事もそつなくこなし、よく気が付く。陸は、穂のそんなところが苦手だった。

二人で向かい合って食卓へ着き、食事をしていたが、いつもより長い沈黙が続いた。

「頭痛、大丈夫?」

陸が訊くと、穂はこちらを見ないまま、

「さあ、どうかな」

と唸るように言って首を捻った。

「お前、今日、無断で早退したんだって?学校から会社に電話がかかってきた」

陸はぎくりとした。まさか、会社にまで連絡が行くとは思っていなかったのだ。普段、学校から自宅の電話へ留守電が入っていても、陸は穂が帰宅する前に消去していた。

「出席日数、危ういらしいぞ。気を付けろよ」

陸は、穂が頭痛がすると言った本当の意味がやっと分かった。

「……ごめん、もう迷惑かけないから」

「そういうことを言っているんじゃない」

穂は箸を置いて陸に向き直った。

「お前は俺に心配かけまいと、何かあっても隠すから、余計心配になるんだよ。何かあったらすぐに言え。そうすれば、俺も無駄に頭を悩ませなくて済むから」

「……ごめん」

陸は、穂はこう言われることが一番参ると知ったうえで謝った。穂は溜息をついて、机に肘をついて額に手を当てた。

「……悪い、何も怒っているつもりはないんだが、言い方が分からないんだ。あまり詮索されるのも嫌だろうから俺も抑えるが、……何かあったら、必ず言えよ」

難しい年頃の自分との距離を推し測り、思い悩む穂の想いが陸は嬉しかったが、同時に煩わしくもあった。甘えたい気持ちは山々だが、適切な甘え方というものが、陸には分からなかった。

 

陸はベランダへ出て、夜風にあたった。ここはマンションの11階なので見渡しがよく、道行く光の動きによって街の流れがよくわかる。これから家路につく者がある一方、これから何処かへ向かう者もあるのだろう。彼らには確かに来た場所があって、向かう場所がある。だが陸は、自分が何処から来たのか、これから何処へ向かっていくのか見当も付かず、暗闇へ手を伸ばし探し求めては、恐ろしい空虚を思い知るばかりだった。

陸は目を瞑り、おもむろに自分の髪を撫でた。こうすると、亡き父の手の感触を思い出すのだ。そして、あの穏やかな声が蘇る。

――「お前の髪は、瞳深(ひとみ)に似て、本当に綺麗だな」

そして陸は、今は何処にいるのかも、生きているかすらも分からない母も、かつて同じ感触の中に安らいだのだろうと想像するのだった。

冷たい風の匂いはどこか懐かしく、言い様もなく陸の胸を突いた。

 

授業が終わり、真尋が講義室を出ようとしたときだった。

「池田さん、ちょっと来なさい」

呼び止められ、真尋は教壇の傍へ行った。

「何ですか、」

「ちょっと待っていなさい」

そう言って講師が勿体ぶって回収したプリントをまとめているのを待っている間に、講義室内に他の学生はいなくなってしまった。真尋がしまった、と思っているうちに、講師が切り出した。

「君さあ、小テストの成績は申し分ないんだけど、出席日数がすでにアウトなんだよねえ」

「……」

「留年はしたくないだろう。まあ、去年と同じことだよねえ。分かるよね」

男は真尋に詰め寄り、彼女の腰に左腕を回した。嫌に火照ったその手は、真尋を凍て付かせた。薬指には銀色の指輪が光っている。授業中に時々、彼が幼い子供の自慢をしていたことを、真尋は思い出した。

夕焼けの過ぎ去った、月白の時間帯。明るいのか暗いのかうまく判断がつかず、これから日が昇るのか沈むのかも、よく分からなくなる。目の前を行き交う黄色いヘッドライトが妙に綺麗で、吸い込まれそうになる。

真尋はスーパーへ寄り、必要な食材をカゴに入れながら店内を歩いていると、鮮魚コーナーである魚が目に留まり、引き寄せられた。シュッとした身に鋭利な頭をした、青銀に輝く魚。真尋には、それがあるものに見えてならなかった。

帰宅すると、部屋はすっかり暗くなっていた。真尋はワンルームの部屋に一人で住んでいる。部屋へ入ると、白地のカーテンに広がった大きな赤い染みが真っ先に目に入る。この間、音楽を流しながら一人で赤ワインを飲み、歌って踊っていたら、ワインを零してしまったのだ。また、以前、部屋の雰囲気を明るくしようと買ってきた花の鉢植えは、面倒を見きれずに枯れており、かえって物寂しさが募った。

真尋はさっそく夕食の支度に取り掛かった。好物の唐揚げを作ろうと買ってきた鶏のもも肉をまな板の上へ置き、包丁を手にしたときだった。耳の奥から、嫌な声が繰り返し響き始めた。それと同時に、思い出したくない感触までもが蘇ってきた。

真尋は、まな板の上の肉を、何度も何度も刺した。原型を留めぬまでに、無心になって刺し続けた。

 

翌日、真尋が講義室を出ようとしたとき、また同じように呼び止められた。例の講師が受け持っている科目だった。

男は昨日と同じように真尋を脅し、腰に手を回そうとしてきた。真尋はおもむろに鞄へ手を突っ込むと、銀色に光るものの切っ先をのぞかせた。すると、講師はひぃっと声を上げ、三歩ほど逃げるように後退った。真尋は間髪を容れずに男へ詰め寄り、彼の左胸に勢い良くそれを突き立てた。男は恐怖のあまり、息を吸い込むような声にならない悲鳴を上げたが、胸に走った痛みは予想と違って、ほとんど殴られた、という感じだった。

茫然として状況を理解できない様子の男を、真尋は上目遣いで見て微笑むと、急に堰を切ったように笑い出した。その笑い声は、普段の上品な言葉遣いで喋る彼女からは想像も付かないようなものだった。そして真尋は、男の顔めがけて秋刀魚を投げつけた。男のかけていた眼鏡が床へ落ちるのと同時に秋刀魚が床に叩きつけられ、べちゃっという、特有の嫌な音が響いた。真尋はその様子を見て一層笑うと、部屋を出て行った。講義室には、まだ動けずにいる男と、死んだ魚が取り残された。

 

まだグラウンドに沿って植えられた銀杏は色づいていないものの、広葉樹の落ち葉がすでに校内のいたるところに広がっており、夕焼けに染まってひやりとした風に運ばれてくる金木犀の香りは、すっかり秋めいている証拠だった。

陸は教科書やノートの詰まった、あまり慣れない重みの鞄を持って他の生徒たちに混じって下校していると、門の前に見覚えのある女が立っていた。こちらに気付いたらしく、手を振ってきた。真尋だ。陸がそのまま歩いて近付き、声をかけようとしたときだった。

真尋が背中へやっていた手を動かして、銀色に光る切っ先を陸に見せた。陸は一瞬、ぞっとして、血の気が引くのを感じた。

すると、真尋は吹き出すように笑ってから、秋刀魚を掴んだ手を前に出し、穏やかに言った。

「ナイフじゃないよ、秋刀魚だよ」

レモンとナイフ(1)

沈みかけの西日は、赤いというよりほとんど黄色で、それを直に正面から浴びている陸からは、向かいの席に座る乗客たちの顔が薄黒く見えた。

帰宅ラッシュとまでは行かないが、ちょうど部活などをやらない中高生たちの帰宅時間となっているため、それなりに座席は埋まっている。どこからか、笑い混じりの男の話し声が陸の耳に入ってきた。

「なんだ、あのロン毛」

陸は、鞄から手を出さないまま、右手に静かに白い手袋をはめた。ちょうど次の駅に着く頃を見計らって、手袋をはめた右手でそのまま鞄からあるものを一つ掴み取り、そっと、席の隅に置いて電車を下りた。

西日を切りながら、電車が再び動き出す。臙脂色の布張りの座席の隅に残されたのは、紡錘形の、目の覚めるような黄色をした果実だった。

衣替えの期間に差し掛かったが、ブレザーを羽織るにはまだ暑く、ワイシャツの上に指定のセーターを着て登校するのが生徒たちの定例となっていた。陸ももれなく周囲の生徒たちと同様の格好をして登校してきたのだが、全校集会を終えて体育館を出る際、生徒指導の教員に呼び止められた。

「吉岡、髪を切れと何度も言っているだろう。男の癖にみっともない」

「すみません」

「それに、うちは染髪禁止だぞ。黒くなおしてきなさい」

「元からこんな色です」

「そんなわけないだろう、」

中年の小太りのその男は、そう言って陸の髪を鷲掴みにして持ち上げ、色の具合を見た。陸は全身に虫唾が走るのを何とかやり過ごし、いつものように「そのうち」と言って教員の手を払い除け、体育館を抜け出した。そして、教室に着くなり、席へはつかずに鞄だけ取って、そのまま教室を出た。

まるで空間を隔たれたようにしんとした、誰もいない学校のプール。秋晴れの空を切り取ったような水面を、ただ風が撫でる。遠くから、体育館から校舎へ戻る生徒たちの話し声や笑い声が響いてくる。

陸は、子供の背丈ほどのフェンスを超えてプールサイドへ入った。鞄をフェンスにもたれるように置くと、制服を着たまま、頭からシャワーを浴びた。晴れているとはいえ、水浴びをするにはもう寒い季節だ。だが、陸は、浴びずにはいられなかった。あの男の汚い手で髪に触れられた感触を、全身から洗い流してしまいたかったのだ。それが一時でも埃のように衣服に留まることも我慢ならなかった。陸は、しばらくそのまま流水を浴び続けた。

セーターとワイシャツとスラックスを脱いで固く絞ってから、再びセーター以外を身につけると、陸は持ってきていたタオルで髪と顔と手をあらかた拭いて外へ出た。学校のプールは、裏道に面している。陸は、右手に白い手袋をはめると、鞄から例の果実を取り出し、プールへ投げ入れた。ぽちゃん、という音に、陸は頭の中で違う音と光景を重ねる。やっと落ち着いてその場を離れようとしたときだった。

目に前に人がいた。長い黒髪と、水色のプリーツスカートを靡かせた、若い女だった。彼女は左の小脇に一冊の本を抱え、右手に白いソフトクリームを持っていた。

陸は見られてしまったことに動揺して動けないままだったが、頭の中では――自由の女神?――などと呑気なことを思った。

そんな陸の緊張など気にも留めぬ風に、彼女は口をひらいた。

「テニスボール?……ていうか、どうしてびしょ濡れなの、」

「……なんでもありません」

女は、足早に立ち去ろうとする陸の湿ったシャツの袖を掴んだ。

「ちょっと話しましょうよ」

「なんで……」

「なんだか、あなたとは気が合いそう」

「……は?」

陸は振り払おうと思ったが、この格好では電車には乗れないと気付き、服がある程度乾くまでの暇潰しにはなるかもしれないと考えた。

近所の公園へ向かう途中、女はわざわざ服屋や雑貨屋などの立ち並ぶ、人通りの多い道を歩いた。もちろん、道行く人々は、全身びしょ濡れの陸をじろじろと見た。

「どうしてこういう道を通るんですか、もっと裏道とかあったでしょう」

「だって、びしょ濡れの人を連れて街を歩いているって、面白いじゃない、」

「は?」

そして、「ちょっと待ってて」と言って女は陸に本を押し付けて、ソフトクリームを持ったまま、すぐ傍のファーストフード店へと入って行った。女が用事を済ませている間、陸は通行人の視線に晒された。今すぐにでも逃げ出したいが、物を預けられているためにそれも叶わず、手持ち無沙汰で女に押し付けられた本の表紙を見た。そこには、『華々しき鼻血』という題名が記されていた。

少しして店から出てきた女は、ドリンクカップを二つ持っていた。

「……ソフトクリームは、」

「溶けてきちゃったから捨てたわ」

陸は、この人は自分とは全く違う種類の人間だ、と思った。自分もたいがい普通というものからずれていると思っていたが、この女は、さらにずれている。

「はい、コーヒー」

女は持っていた片方を陸へ差し出した。陸は礼を述べてそれを受け取ったが、予想していたのとは真逆の温度だったので、驚いて取り落としそうになった。

「この季節にアイスコーヒーって、寒くない、」

「私、猫舌なの」

「……そうですか、」

やっとの思いで公園へ辿り着くと、二人は並んで木製のベンチへ座った。平日の昼下がりとだけあって他に人影もなく、色づき始めた梢の音だけが心地よく響いた。しかし、天気がいいとはいえ、心地よいはずのそよ風は、まだ全身が濡れている陸には肌寒かった。

ここまで歩いてくる間にも、髪だけはだいぶ乾いてきていた。緩やかなウェーブのかかった、肩まである栗色の髪が、風が吹く度に靡く。女はそれを眺めながら言った。

「髪、綺麗だね」

それは、陸が大きくなってから、初めて言われた言葉だった。

「あんた、変わってるね。男の癖にとか、何で伸ばしているのかとか、訊かないんだ」

「別に、髪型なんて人の自由じゃない」

女はそのまま言葉を続けた。

「私ね、小さい頃からずっと、長い髪が好きだったのだけれど、通っていた中学校がすごく厳しくて、肩より長い髪は結わなくてはいけない校則があったの。しかも、結い方から髪ゴムの色まで指定されていたの。でも私、髪を風に靡かせたいから、指定外のハーフアップをしていたのだけれど、それで先生から呼び出されて、指定の結い方をして来いって説教されて。むかついて、その日のうちに、短くバッサリ。でも、腹の虫が収まってから鏡を見たら、すごくショックで大泣きして、それから一週間学校を休んだわ。髪って、私の体から生えているものじゃない、どうして他人にあれこれ言われなきゃならないのかしらって思ったわ。あのことは、今でも恨んでいるし、殺したい」

陸も妙に共感して、二人の会話は盛り上がった。話しているうちに、彼女は真尋という名前で、大学生だということが分かった。

「陸くんって、こんな時間にびしょ濡れで歩いているから、ちゃらんぽらんなのかと思ったら、案外、鞄は膨れているのね」

そう言って真尋は、陸の鞄を手繰り寄せた。ファスナーを開けると、そこには、濡れたセーターと白い手袋と、たくさんの黄色い果実が詰まっていた。

「まあ、たくさん。さっきプールへ投げていたの、テニスボールじゃなくて、レモンだったのね」

「むかつくことがあると、その場所に置いたり、投げ込んだりするんだ。いつか読んだ小説で、レモンを爆弾に見立てていたから」

「なにそれ、素敵。私もやりたい」

真尋は目を輝かせて詰め寄った。陸の服も、水が滴らない程度には乾いてきていたので、二人はそのまま、真尋の通っている大学へと向かった。ビルのように立派な外観をしたその建物は、陸の高校から徒歩5分ほどの場所にある、この辺りでは有名な大学だった。

「勉強は面白いけれど、つまらないのよね、ここにいる人たち。私のこと妙に避けるし」

真尋は陸の鞄からレモンを取ろうとしたが、陸がそれを制した。

「待って、これつけて」

陸が白い手袋を差し出したが、

「何を怖気づいているのよ、たかがレモンよ」

真尋は、素手でレモンを取って、大学の敷地内へ投げ入れた。そして、彼女は目を瞑った。どんな音と光景を想像したのか、陸には分かった。

「はあ、なんだかすっきりした」

「俺も、寄りたいところがある」

次に二人は、陸の高校へと戻った。プールと並んで裏道に面した駐車場へと入ると、シルバーのセダンの前で立ち止まった。

「今日、この車の持ち主に髪に触れられたんだ」

陸がその車のボンネットの上にレモンを置くと、真尋も並べてもう一つ置いた。その場を立ち去りながら、二人は同じ音と光景を想像した。

槿花の夢

まちをとり囲むような山々は日の光を浴びていかにもこの季節らしく青々とし、窓に染み入る蝉の声は止むことを知らぬように延々と続く。

指導員が教室へ入ってきてエアコンの電源を入れたことにより蝉の声も遠のき、生徒たちもやっと勉強をする気になってくる。ひとくくりに生徒といっても、ここは自動車学校なので様々な年齢層の者が混在している。大学の講義室とはまた違った風景の教室に、ここへ来て一週間が過ぎた董矢(とうや)もようやく慣れてきた。

指導員が自身の腕時計と教室の掛け時計を交互に確認し、そろそろ授業を始めようと教本を捲りながらこれから学ぶ内容を説明し始めたときだった。教室へ入ってくる者があった。この教習所はかなり時間に厳しく、少しでも時間に遅れれば教室へ入らせてすらもらえないため、危うい時間に来る者は珍しい。董矢も周囲の動きにつられてそちらの方へ目を向けた。その先にいたのは、董矢と同じような年頃の青年だった。おそらく大学生だろう。董矢はその顔になんとなく見覚えがあるように感じたが、俳優か何かに似ているだけだろうと思った。それくらい整った顔立ちをしているが、つんとした表情で下ばかりに目線を向けていて、どこか近寄りがたい雰囲気を放っていた。董矢は容姿の良い人間は自分に自信があり、なおかつ周囲と友好的だという偏見とも呼べそうな印象を持っていたので、彼の持つ閉鎖的な空気は董矢にとって意外なものだった。それは、顔立ちの良さから単純に周囲から優しくされたりちやほやされたりしてきたような質ではなく、それによって幾度か悲惨な目に遭ってきたために、人を寄せ付けまいと神経を張り詰めているといったような印象だった。

彼が無言で董矢と通路を挟んだ隣の隣の席へ着くと、指導員は授業内容の説明を再開した。

董矢は頭に何かがぶつかったのを感じて目を覚ました。授業を聴きながら眠気と闘っているうちに、居眠りをしてしまっていたのだ。覚めきらない頭でそう認識している間に、足元へ紙くずが落ちた。おそらくこれが頭に当たったものの正体なのだろう。董矢は指導員が教本に目を落としているのを確認してから拾い上げ、開いてみると、それは手荒くノートから破られた一ページで、黄色の蛍光ペンで「起きろ!」とだけ殴り書きされていた。董矢は静かに周囲を見渡してみたが、こちらを見ている者はおらず、紙くずを投げた人物を特定することができないまま授業を終えることとなった。

そのまま空き時間を迎えた董矢は、眠気を覚ますため駐輪場にある自動販売機で缶珈琲を買った。よく冷えたそれをその場で開けて飲んでいると、背後から人が歩いてくる気配があったので脇へ避けて自動販売機の前を開けた。

「久しぶりだな、村瀬」

董矢は近づいてきた人物がまさか自分に用があったとは思わず驚いて振り返ると、そこには、先ほどの授業でぎりぎりの時間に入って来た青年が立っていた。董矢が解せない顔をしていると、青年はさきほどよりいくらか寛いだ表情を見せた。

「憶えていないかな。ほら、小学6年のときに転校した」

董矢は遠い記憶の中にいる、この青年の面影と一致する少年を一人見つけた。だが、この青年とは苗字が一致しなかった。その少年は今川遥章(はるふみ)という名前だった。しかし、さきほどの授業で指導員から源簿を返される際、彼は西本と呼ばれていた。

「……それは確か、今川だったろう」

「両親が離婚して苗字が変わったんだ。今は西本」

「そうだったのか、久しぶりだなあ。じゃあ、お袋さんの実家がこっちなのか」

「そういうこと。村瀬は、大学がこっちなのか?」

「いや、俺は合宿で来ているんだ。大学は東京だよ」

彼らがこのようにまともに言葉を交わすのは、実はこれが初めてのことであった。何しろ小学生時代も二人の間には特に交友関係がなく、挨拶程度しか言葉を交わしたことがなかった。といっても、あるひとつの出来事を除けばの話だが。

「合宿って普通、大学の友達とかと一緒に来るものじゃないのか」

「まあ、そうなんだけど」

董矢は誤魔化すように薄く笑った。そもそも、董矢が大学へ上がって初めての夏休みをここで一人で過ごすこととなったのは、上手く友人を作ることができず、大学生活に息苦しさを感じていたからだった。一人どこか遠くへ行く口実が欲しかったのだ。普通に旅行へ行くよりも、免許合宿ならば長期間滞在することができ、なおかつ両親が資金の半額を援助してくれる。その上、当然ながら免許取得も叶う、というわけだ。

董矢が言い淀んでいるのを察してか、遥章もそれ以上掘り下げようとはしなかった。董矢は何気なく手を突っ込んだポケットの中で、カサっと音を立てるものに触れて思い出した。

「そういえば、さっきこれを投げたの、お前か」

董矢は先ほどの紙くずを取り出してみせた。

「ああ、頭がぐらぐらしていて、見るからに危なかったからな」

「おかげで助かったよ」

居眠りが指導員にばれた場合、欠席扱いとされてしまうのだ。通学ではなく合宿で来ている董矢にとって、それは避けたいことであった。

「今日はあと何限があるんだ?」

遥章は自動販売機で缶珈琲を買いながら聞いた。

「五限の技能だけ」

「じゃあ、それが終わったら何処かへ行こうぜ。案内してやるよ。どうせ4時まで寮へは戻れないんだろう」

五限目は昼の2時から3時までだ。早くに授業を終えても、合宿生は4時まで部屋へ戻ることができないという規則がある。

小学生の頃に特別に仲が良かったわけでもないうえに、遥章は人と会うのが好きな質にも見えないので、彼が自分を誘ったことに董矢は疑問を抱いた。だが、董矢ももともと五限目を終えたら観光へ行くつもりであったし、慣れない土地ではやはり地元の人間が一緒にいた方が心強いため、断る理由もなかった。

もう時刻としては夕方ではあるのだが、日が沈むまではやはり蒸し暑い。二人は渡月橋の傍にある木陰へと逃げ込んで、桂川を眺めながら、どんどん溶けてゆくソフトクリームを食べた。抹茶味で、白や緋や橙など、和色で統一されたカラフルなあられの粒が散りばめられていて可愛らしい。味はまあまあだが、こういうものは見た目で楽しむことが重要なのだ。

渡月橋や土産物屋の通りを行き交う観光客には日傘をさしている者も多くいるが、日焼けなど気にしないのか、ノースリーブから出した肩を真っ赤にしている者もいる。近年は一層外国人観光客の数が増えており、董矢が中学の修学旅行で来たときにはなかった賑わいがあった。

二人が逃げ込んだ木陰には碑が建っており、そこには歌が記されていた。

――一筋に雲ゐを恋ふる琴の音に ひかれて来にけん望月の駒――――

「なあ、」

そう呼びかけられて、董矢ははっとした。人といても、つい考え込んでしまう癖がある。

「橋口って、覚えているか」

それは、小学校の同級生の名前であった。彼は高校二年のとき、交通事故で亡くなった。ちょうど今頃の季節の出来事であった。当時、友人伝いで董矢の携帯へもそれを知らせるメールが来ていた。おそらく遥章も同様だろう。

小学校時代、少年野球をやっていて活発だった橋口は、クラスの人気者といったような人物だった。どちらかというと目立たない児童であった董矢と遥章は、どちらも彼とはあまり関わりがなかった。

「さぞ無念だったろうなと、今でも思うんだ」

遥章は、足元に転がっている蝉の死骸を眺めていた。ぼんやりとしたその横顔はとてもきれいで、今、唯一傍にいる董矢は、何だか自分が特別な人間であるかのような錯覚に陥った。

「そうだな。たった十七で――」

「そうじゃない」

遥章は、半ば董矢の言葉を遮るようにして声を発したが、声色は変わらず、極めて落ち着いていた。表情と同様、ぼんやり、といった方が適当かもしれない。

「橋口は冬生まれだった。まともに話したこともないけれど、俺と誕生日が近かったから、それだけは覚えている……。それなのに、夏に死んだというのは、さぞ無念だったろうなと……」

「……何故?」

冬生まれは冬に死にたい。そういうものだろう」

「そういうものかな」

董矢はその理屈が理解できず、向こう岸の山を仰いだ。そこで、急に耳の中へ蝉の声が流れ込んでくるのを実感した。当たり前のように延々と続く音は、時折あることを忘れる。

「そういえば、告別式には出たのか、」

「出ていない」

「俺も」

遥章の横顔には、どこか安堵の色が見えた。

蝉の声に続き、川の音や、通りの雑踏の音が二人を包み込んだ。桂川は緩やかに流れているように見えるが、音は轟々としていて威厳がある。

流水は二度と同じ場所を通らないというが、蝉の声にもまた似たところがある。蝉は夏に地中から出てきて、たった七日で死んでゆく。つまり、当然ながら、去年の蝉と今年の蝉は、一匹の例外もなく、まるきり違うのだ。季節は毎年同じように巡ってくるが、その人格は違うのだ。彼らのこの夏もまた例外なく、幻のように過ぎ去って死んでゆく。

次に董矢が遥章と会ったのは、案外すぐだった。

午後になって最初の時限が始まる前に、二人は教習所のロビーでたまたま顔を合わせた。

「どこまで進んだんだ、」

「これから見極め」

「ということは、明日卒業か。合宿はやっぱり進みが早いな」

「受かれば、の話だけど」

「今日も時間、大丈夫か」

遥章も今日は次の学科のみで、董矢も次の時限に実技を終えれば今日はもう何もない。二人はまた、ロビーで待ち合わせて出掛ける約束をした。

董矢のリクエストで、バスで清水寺の方へと向かった。遥章が寄りたいところがあると言い、清水寺からは少し遠い四条京阪前で降りた。大和大路通りを通って松原通りへ入り、清水寺を目指した。その途中、六波羅蜜寺と飴屋へ寄った。その飴屋は日本最古の飴屋らしく、幽霊子育飴という奇妙な名前の飴を売っていた。

「祖母が好きなんだよ、この飴。陽にかざして、いつまでも眺めている」

そう言って一包買う遥章につられて、董矢も記念に一包購入した。

飴なのに眺めるのか、と不思議に思っていたが、包を解いてみて董矢も納得した。ひとかけら取り出して見ると、それはまるで琥珀のように美しかった。あいにくの曇りで陽にかざすことはできないが、それでも十分に濃密な光を湛えていた。口に含むと、少し香ばしい優しい甘みが広がり、どこか懐かしい思いがした。

そのまま松原通りを上ってゆき、二人は清水寺地主神社などを満喫した。昨日よりはいくらか打ち解けた雰囲気で会話しながら坂を下っていると、ぽつぽつと雨が降ってきた。次第に雨足は強まり、いつしか大雨となった。傘を持っていない二人は咄嗟に近くのビルの軒下へと駆け込んだ。それでも雨があまりに強いせいで、地面に打ち付ける度に水飛沫が体にかかる。降り出して五分も経たないうちに路の両端には川のような流れができていた。二人とも、服はとうにびしょ濡れだった。

董矢はある遠い記憶が蘇ったが、それから目を逸らすように口を開いた。

「夕立かな、それにしてもすごい雨だな」

「遣らず雨、かもよ」

え、と董矢は聞き返したが、あまりの雨音にかき消されて届かなかったのか、遥章は何も答えなかった。

「あの時のこと、覚えているか」

その真面目な声色に、董矢は制されたような気がして、思い出していないふりをするのを諦めた。

「ああ、」

七年前のちょうど今頃の季節、夏休みへ入る直前のある日のことだった。

図書委員の当番だった董矢は、放課後に図書室に残っていた。ひとり黙々と先生に頼まれた仕事をしているうちに、雨が降りだした。

董矢は予報で夕方から雨が降ることを聞いていたので、ちゃんと傘を持ってきていた。傘を広げて昇降口を出ると、もうとっくに他の児童たちは下校していた。雨が降っているので、いつも校庭で活動をしているスポーツ少年団の姿もなく、あるのは雨音だけだった。普段、賑やかな学校しか知らないので、このようにしんとした校舎が、当時の董矢には恐ろしかった。

早く家へ帰ろうと足早に正門へ向かって歩いていると、低学年の昇降口の軒下で、誰かが雨宿りをしていた。低学年の昇降口はとっくに施錠されている時間だ。通学帽をかぶって俯いているので顔は見えないが、身長からして高学年だった。その様子は明らかに普通ではなく、董矢は傍へと寄った。

「傘、忘れたのか」

顔を覗き込んでみると、それは遥章だった。当時、彼らは同じクラスだったが、話したことはほとんどなかった。遥章は、肩を小刻みに震わせて、歯を食いしばって泣いていた。話しかけてもこちらとは目を合わせず、睨むようにじっと地面を見つめていた。

「忘れたのだったら、貸そうか。俺、家近いから」

返事はない。

「どうしたんだよ。誰か先生、呼ぼうか」

そう言って董矢が空いていた手で遥章の背中を摩ると、すぐに振り払われた。

「構うな、あっちへ行けよ」

「でも、」

「いいから、あっちへ行けって!」

遥章は涙を流しながら鋭い目つきで董矢を睨み、董矢の傘を突き飛ばした。傘は地面へ転がり、水溜りに落ちた。仕方なく、董矢は傘を拾ってそのまま家へ帰った。

董矢が最後に遥章の姿を見たのは、終業式の日だった。他の児童たちが夏休みに期待を膨らませて落ち着きのない中、遥章だけは浮かない顔をしていた。夏休みを終えて新学期をむかえると、もう教室の中に彼の姿はなかった。夏休みの間に京都へ引っ越したのだと担任から告げられた。

「あの時のこと、ずっと謝りたかったんだ。だから、教習所で村瀬を見かけたときは、本当に驚いたし、動揺した」

遥章が必死に言葉を絞り出しているのを感じて、董矢はそれを見守った。

「あの頃は、両親の離婚が決まって色々と揉めていて、自分がどうしようもなく子供で、どうしようもなく無力なことに嫌気がさしていたから、優しくされるのも辛かったんだ……でも、事情を知らない人間には、そんなこと知ったことではないから、あんな態度をとるべきではなかった……あの時は、本当に悪かった」

「謝るべきなのは、俺の方だ。後になって、人は泣いているとき、必ずしも助けを求めているわけではないと分かったから。自分では手を差し伸べているつもりでも、その手が相手の自尊心を押しつぶしてしまうこともあると、分かったから……」

短い沈黙の後、遥章が笑い声を零した。

「お前、人付き合い苦手だろう」

「どうせ、そうだけど」

董矢は少しいじけてみせた。

「いや、俺と似ているから、そうだろうと思って」

そうこうしているうちに、いつしか雨も小降りになっていた。二人はビルの軒下から飛び出し、小走りで地下鉄の駅を目指した。遥章の予想通り、近くのバス停には行列ができていた。

二人は董矢の寝泊まりしている寮の最寄りで地下鉄を降り、近くの商店街にある蕎麦屋で夕食を済ませた。

雨がやんでから一時だけ暑さが蒸し返したが、さすがに夜の十時を過ぎるとかなり涼しく過ごしやすい。夕方の大雨で濡れた服も、だいぶ乾いていた。遥章も家の方向がある程度一緒らしく、二人は董矢の寮へ向かって歩いていた。

「じゃあ、俺こっちだから。明日の卒検、頑張れよ」

突然、遥章はそう言って、警報音の鳴り始めた踏切をわたり始めた。董矢も後を追おうと思ったが、しりごみして間に合わず、ポールが降りきる前に彼が無事にわたりきるのをはらはらしながら見届けた。遥章がなにか短い言葉を発した。だが、接近してくる電車の音が邪魔をして、上手く聞き取れない。そしてそのまま、こちらに手を振る遥章と董矢の間を、轟音を立てながら電車が通った。

電車が通り過ぎると、踏切の向こうにはもう、彼の姿はなかった。電車の過ぎ去った風の名残で、路の傍らに植えられた木槿がいつまでも揺れていた。たくさんつけた白い花は、どれも萎んでいた。また明日の朝、新しい花を咲かせるのだろう。

翌日、董矢は無事に卒業検定に合格した。昼に一旦荷物をまとめに寮へ戻った際、昨日の踏切の方へ寄った。昨晩とは違い、木槿が凛とした美しい白い花をいくつも咲かせていた。

董矢は踏切の向こうを眺めた。

「聞き間違いだったのかな」

その問いは、何処へともなく消えていった。今となっては真偽を確かめる術もない。